1999年6月1日に母は天国に旅立った。亡くなる瞬間に間に合わなかったは、今でも心に棘となって刺さっている。それから、早いもので20年になる。大腸がんだった。今なら、複数の治療オプションはあるが、当時は非常に限定的だった。主治医だった私の同級生に、「がんの告知は私がする」と伝えたものの、「祐輔、大丈夫か?」との問いに、ぎりぎりまで「あと…くらいかな」が言えなかった。しかし、タンスには自分の死装束を用意していた。母の亡骸に実家で会い、タンスの中のそれを見た瞬間、溢れるように涙が湧いてきて止まらなかった。もっと早く残された時間を告げた方が良かったのかどうか、今でも答えは出ない。
母は自分で自分の死を悟り、希望のない日々を送っていたのかもしれない。外科医として2年間勤務した病院で、多くの患者さんから多くの貴重なことを学んだ。死を看取った大半の患者さんの顔は今でも脳裏に浮かぶ。希望なく生きることの辛さ・苦しさを、がん告知をした一人の患者さんが残した日記から学んだ。絶望の患者さんを看取る家族の姿も印象的だった。メスを捨て、研究者として生きていくと決めた時は、絶望の中で暮らす患者さんや家族に少しでも灯りをともしたいと誓ったからだ。そして、母は、その病院で最後の時を迎えた。
1990年代後半、研究者として、成果を出さなければならないと重圧と闘っている時に、母がステージ3の大腸がんと診断された。お腹を開くまでは、かすかな望みはあったが、肝臓に小さな転移があった。手術室にいた私は、同級生によって摘出された肝臓の塊をメスで二つに切開した。その瞬間、病理診断の結果を待たずとも、大腸がんの転移だとほぼ確信した。この瞬間に、ステージ3は4となった。
手術からの死までの1年間、母の闘病生活を間近で見ていて、私の人生観は大きく変わった。「いい雑誌に出すこと」の価値は下がり、「患者さんに希望を!」、その言葉が私のすべてとなった。2011年この思いを実現するための手立てとして、内閣官房の医療イノベーション推進室長の職に就いた。しかし、東日本大震災後の政治の在り方、火事場泥棒のような研究者の浅ましさ、自分の選挙のことしか考えない政治家の生き様を見た。今の野党の面々の言葉は、私には空疎でしかない。そして、津波被災者に何もしてあげられない自分の無力さに耐えられず、シカゴに渡った。
しかし、インターネットの時代、患者さんや家族の声が引きも切らず届いてきた。たとえ、国を動かせなくても、一人一人の患者さんのために何かできることがあるのでは思い、日本に戻る決心をした、約1年前に帰国したが、偶然に恵まれ、内閣府の「AIホスピタルプロジェクト」のリーダーに選任された。人工知能は日本の医療にとって非常に重要だ。これを通して、がんだけでなく、広く医療に貢献したい。
そして、多くの方に、「日本に戻ってきてよかったですか?」との質問を受ける。正直なところ、肉体的にも、精神的にも厳しいものがある。片道1時間弱の満員電車での通勤は辛い。これに会議のために霞が関などに移動する時間を含めると週に15-20時間を移動に費やしている。シカゴ時代は週4時間弱なので、勉強時間、運動時間、くつろぎの時間がかなり減っている。
精神的に厳しいことは、私ががん研究所に勤務しながら、ネオアンチゲン治療の相談に乗っていることに対する病院側から聞こえてくる厳しい声だ。標準療法、プロトコール医療、保険診療の壁は厚くて高い。がん研病院を受診した患者さんから、「今、がん研病院にいる。中村先生は数十メートルの所で勤務しているが、果てしなく遠く感ずる」とのメールを受け取った時は悲しかった。自分の所から去る可能性ある患者に対する一部の医師たちの心無い言葉に、患者さんや家族は、傷つき、戸惑い、そして、苦悩の気持ちを濃くしている。それを聞くたびに、自分のしていることが間違っているのかと、心がくじけそうになる。
しかし、「患者さんに希望を!」は、私にとって最も大切な思いだ。もちろん、私の地位や立場よりも優先されるべきことである。私の願いが有明で実現されるのかどうか、自信がなくなってきた。しかし、矢が飛んできても、石を投げつけられても、最後の瞬間までは気持ちを切らさずに頑張りたい。そして、日本に戻ってきたことが、日本のがん医療の改革につながったと振り返ることのできる日が来ると信じたい。
編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2019年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。