皇位継承の問題というのは、いよいよ継承すべき人がなくなってくると急に大騒ぎして、思いつきと政治的思惑で突拍子もない発想がいろいろ出てくる。
そして喉元過ぎると、油断して長期的な視野をもった議論が出てこなくなり、逆に、少し怪しげになっても言い出しにくくなり、いよいよ危なくなるとまたその場しのぎの議論だ。
ところで、皇位継承の危機はなにも今回が初めてではない。光格天皇のあと、成長した皇子が仁孝、孝明、明治、大正と一人ずつだったのだから、まさに薄氷を踏む思いだったのである。もし、こうした皇子が育たなかったらどうなったのだろうか?あまり資料はないのだが、孝明天皇と明治天皇のケースについて考えてみよう。
孝明天皇は、日米修好通商条約の締結を巡って幕府と対立し、譲位をほのめかされたり、逆に廃位を幕府も検討するなどということがあった。
そのなかで、安政5年(1858年)6月28日付けの宸翰で「世を治め候事、所詮微力に及ばざるゆえ」として伏見宮貞教(1847年生まれ)、有栖川幟仁(たかひと)、熾仁(たるひと)親王のいずれかに譲位したいと仰っている。
このときには、すでに明治天皇は誕生しているが(1852年)、幼児なので候補にはなっていない。
明治天皇については、もし皇子がないまま早死にされた場合は、有栖川宮家からということだったようだ。明治11年(1878年)に起きた竹橋騒動(近衛兵の反乱)の際には明治天皇が退位して有栖川宮威仁親王に譲位したという噂が流れている。
このあたりの経緯を見ると、皇族のなかでもっとも男系の血縁関係で近いのは、有栖川宮(霊元天皇の子孫)であるから自然な流れだ。しかし、孝明天皇の譲位騒動のときは、伏見宮のほうが先に名が上がっているのだから、血縁関係だけで論じているのでなさそうだ。
その後は、1879年に大正天皇が生誕、その後、1901年に昭和天皇が誕生し、引き続き秩父、高松、三笠宮の誕生があったので、明治天皇の子孫以外に皇嗣をもとめることはなくなった。
ただ、1889年に旧皇室典範が制定されたときには、昭和天皇はまだ誕生されていない。もし、大正天皇(当時の皇太子)に皇子が生まれなかったときはどうなるかだが、規定上は血縁関係がいちばん近い有栖川宮という前提だったように読める。
その後、旧制度が廃止になるまでは、昭和天皇にも2人の皇子が誕生し、三笠宮家にも寛仁親王が誕生されたので、大正天皇の子孫以外からという議論はされなかったが、そのときには、有栖川宮家は断絶していたので、規定上は伏見宮、久邇宮という順になりそうだ。
そのころには、北白川、竹田、朝香、東久邇の各宮家と明治天皇の皇女が結婚しており、また、昭和天皇の長女が東久邇宮と結婚し、それぞれ男子がいた。そういうなかで、明治天皇の血を引かない伏見宮家や久邇宮家に皇位が継承されたのか、それとも皇室典範改正論議が起きていたとみるかは仮定の議論なので不明である。(もし情報をお持ちの方がおられたら提供頂ければ幸いだ)
Channel AJER 特別講演会…八幡和郎講演会
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