先日の拙稿においても指摘した通り、欧米を中心に広がりを見せていた『ポピュリズムの波』が、日本でも日増しに顕在化している。各既成政党はイメージ戦略に腐心し、肝心の政策”論議”は鳴りを潜めている。その間隙を縫う形で、一部の政治団体が大衆迎合主義的に支持拡大を企図しているようにも見える。
政治の世界全体が何処とない閉塞感で覆われる中、多くの有権者が「理想的な政策」を高く掲げる政党に共感を覚え、閉塞感に満ちる現状を喝破する「小気味よい言説」に心を惹かれたとしても、何ら不思議ではない。ただ、多様な主体間の対立や利害を調整しながら意思決定を行う一連の流れこそが『政治』であることを考慮すれば、『単純な現状の喝破・否定』や『理想に過度に傾注する姿勢』は、本来の政治の役割を弱めることに繋がりかねず、必ずしも好意的に捉えることは出来ない。
『2000万円問題』:年金ポピュリズムの底浅さ
ポピュリズムとも言える流れは、何も新興の政治団体に限る話ではない。既存政党においても同様である。先日閉会した通常国会においては、金融庁に設置された金融審議会・市場ワーキンググループが発出した報告書『高齢社会における資産形成・管理』にあった「20年で約1300万円、30年で約2000万円の取り崩しが必要になる」との一文が異常なまでにクローズアップされた。
各世帯によって貯蓄額等も違えば、目指す生活水準も違う事を考慮すれば、平均額を直接記述するという方法が適切でなかったではないかという批判は既に表面化している。何れにせよ、この「2000万円」という文言のインパクトが一人歩きしまったことは否めない。
この報告書に関して、政権与党側は、所管大臣の麻生金融担当相が同報告書の受け取りを拒否したことを代表例に、同報告書の存在そのものを”葬り去ろう”とし、野党、特に立憲民主党は「100年(人生の)安心を担保する年金(受給額)ではなかったのか」という論調で政権与党への攻勢を強めた。
政権与党にせよ野党にせよ、念頭にあったのは12年前の参院選直前に浮上した「消えた年金問題」であろう。だからこそ、政権与党は過剰に守勢に、野党は突破口として攻勢に回ったのであろう。一連の報道を見る限り、国民民主党などの一部政党を除けば、この報告書に正面から向き合った政党はなかった。
これは、政権与党・野党を問わず、余りにも稚拙な対応であったと言えるのではないだろうか。公的年金はあくまでも「保険」であること、積立方式ではなく「賦課方式」に基づいて運営されていること、100年安心という文句は、本来「年金制度が100年間持続可能である」ことを謳うものであることはどこまで考慮されていたのか。また、本報告書の趣旨は「少子高齢社会において、国民の生活をより豊かにする為に自助は如何に実践されるか」という視点から資産形成・管理の在り方を提言するものであったことも、忘れてはならない視点であろう。
本来であれば、この報告書などを踏まえ、「年金制度の持続可能性を如何に担保するか』という観点から、国民負担を増やして年金支給額を維持するのか、国民負担を現行のままとし、所謂マクロ経済スライドを用いて支給額面を調整するのか、まずは政治家自身が巨視的・建設的に議論を行い、国民的議論を喚起、場合によっては主権者たる国民を説得しようという試みが重要だったのではなかろうか。
ただ、実際には、与野党とも、(選挙対策で)微視的な観点から高齢者(票)におもねり、与党は逃げて守り、野党は攻撃の為の攻撃が重ねられた。まさに「年金ポピュリズム」とも言うべく状況が生起している。
与野党に問いたい。政治が国民の不安感や社会の持続可能性をもてあそんで良いものなのであろうか。国民に問いたい。私たち日本国民は世代を超えた建設的な対話を諦めてしまって良いのだろうか。
『政治家』教育をはじめよう
2015年の公職選挙法改正に伴い、選挙権年齢が20歳から18歳へと引き下がった。いわゆる「18歳選挙権」である。18歳選挙権の実現に伴って「主権者意識を養い、社会へ参画する態度を育む」ことを目的にした『主権者教育』が全国の高校で始まった。
これは、様々な社会課題や(課題解決手段としての)政治から隔絶されてきた学校や高校生を社会と再接続しようとする画期的なものであった。理念上、従来の学校教育も「社会への参画」を謳い、「公民としての良識を養う」とされてはいたものの、現実には学校現場は『社会と切り離し、政治的に無菌状態であることが是』とされてきた。
本来、大人であろうと子どもであろうと、各々の価値観は多様であり、そこに唯一解は存在しない。だからこそ、民主主義という意思決定システム下では、例え価値観が異なる構成員相互であっても、事実に基づいて対話し、妥協点を模索しながら合意形成を図り、意思決定を繰り返していく事が重要なのである。このプロセスに対する理解やノウハウは一朝一夕で築かれるものではない。
そして、実際の社会問題に応用する事には一定の難しさが伴う。だからこそ、学校現場で実際の社会課題をや実際の(課題解決手段としての)政治を扱う「主権者教育」の理念は、特に18歳選挙権時代には欠かすことが出来ない。
ただ、現実には長年『社会と切り離し、政治的に無菌状態であることが是』とされてきた影響や「○○教育」が無数に降りてくる背景もあり、本質的な主権者教育に取り組む事が出来ている学校現場は少ない。大多数はカリキュラムとしての「主権者教育」を「選挙教育」と読み替え、選挙啓発や選挙制度の解説のみを行なっている事例は数知れない。
19世紀から20世紀にかけての社会学者・マックス・ヴェーバーは著書「職業としての政治」において、政治家の素質を①情熱・②責任感・③判断力と定義した。かつての様に、社会が大きな物語の下に統合され、政治を職業政治家に委任すれば上手く行く時代においては、限られた人間がこうした素質を有してさえいれば良かった。
他方、今日は幸か不幸か社会が分断され、多様な価値観が表出する時代である。職業政治家ではない人々であっても、価値観の相克に直面するからこそ、課題解決手段としての政治に当事者意識を持つことが求められている。だからこそ、最前述の「民主主義のプロセス」に一人ひとりが『当事者』として関わろうとする意識そのものを教育カリキュラムで育むことが最も重要である。
換言すれば、選挙教育と読み替えられる既存の主権者教育から、ヴェーバーの言うところの『政治家』教育としての主権者教育へと昇華させて行かねばならない。
そのためにはまず、教育現場の管理運営や教育行政に携わる者が、職業政治家に対する一方的なアレルギーを減らすこと、職業政治家が、自らの地位で他者を圧倒しようとする試みを厳に慎むことは欠かせない。また、生徒会活動などの既存の枠組みを現代の潮流に合ったものへと変化させていくこと、教職員−生徒間の関係性を「学び合う」関係へ変化させながら、学校外のNPO・NGO等と協働することも必要であろう。
これから更に加速する少子高齢化の流れの中で、更に多くの課題が表出することは想像に難くない。それであっても、各個人が事実を認識し、世代を超えた対話を行い、妥協点を探りながら社会の意思決定を行なっていく必要がある。
国民におもねるポピュリズムの波で漂流を続ける日本政治に歯止めをかける為に、早急に『政治家』教育を実現する必要があるのではなかろうか。
栗本 拓幸(くりもと ひろゆき)慶應義塾大学総合政策学部/NPO法人Rights
1999年生まれ、慶應義塾大学総合政策学部在学。行政におけるテクノロジー活用、若者の社会参画などの分野で研究と実践。(一財)国際交流機構をはじめ複数の法人で理事他、液体民主主義の社会実装を進めるLiquitous Corp.を設立。YouTubeやブログなどで発信など。