産経新聞に連載中の「昭和天皇の87年」の7月6日分は、日中戦争の契機となった1937年7月7日の盧溝橋事件を取り上げていた。だが、その日中戦争の航空機戦が日中というよりはむしろ米ソの義勇軍と日本軍との戦いだったことはあまり知られていない。
義勇軍といえば盧溝橋事件と同じ頃のスペイン内戦で、フランコ将軍を支援するドイツやイタリアに対抗してコミンテルンが呼び掛けた「国際旅団」や朝鮮戦争での中国義勇軍が有名だ。が、日中戦争にも米ソの義勇飛行機乗りが相当数、それぞれの国の航空機と共に加わっていた。
本稿では主として吉田一彦・神戸大教授の労作「シエンノートとフライングタイガース」(徳間書店)に依拠して、日中空中戦の様子を辿ってみる。
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1937年5月、米国陸軍航空隊の戦闘機パイロットを前月に辞したクレア・シエンノート(1893年〜1958年)は上海にいた。48歳で大尉と昇進の遅れていた彼は、前途が明るくないと心得ていたが、自分より劣った者から命令を受けるのは、力量に自信がある彼には我慢が出来なかった。
彼の上海行にはカーチス・ライト航空会社の中国代理人で、上海でも航空機組立会社を経営していたウィリアム・ポーリーが関わった。中国空軍の強化支援を要請されていたポーリーは良く知るシエンノートに白羽の矢を立て、それに彼が応じたのだった。
以来、密かに中国と接触していたシエンノートは、36年7月に中国航空問題委員会から年俸12,000ドルの2年契約(更新可)で中国の戦闘機部隊養成の全権を任せるという打診を受けた。機種決定や訓練マニュアル、教科書、戦術指示書の編纂なども任される内容だった。
日本経由で上海に向かうひと月の航海に彼が所持したパスポートには「農夫」と職業が記されていた。「中国空軍教官」の肩書で日本のビザは下りない。神戸にはオーストラリア人ジャーナリストで中国国民党顧問をしている、「曲芸一座の助監督」が肩書のW. H. ドナルドが出迎えた。
ドナルドは蒋介石夫人の宋美齢の側近として蒋夫妻と行動を共にし、演説や書簡のライターを務めた。10台半ばから米国に留学しキリスト教徒でもあった美齢は、その容貌と流暢な英語がドナルドの草稿とも相俟って、支援を訴えて講演旅行をして回った米国で大いに人気を博した。
タイムライフ社を興した中国生まれのヘンリー・ルース(父が中国で宣教師)は、米国で洗礼を受け中国で聖書印刷で財を成したチャーリー・宋の愛娘美齢(姉に霞齢と慶齢、兄に子文)を可愛がり、蒋夫妻をタイム誌の「1937年の時の人」として表紙を飾らせるなど、親中反日の米国世論作りに勤しんだ。
当時イタリアの支援を受けていた中国空軍は「フィアット機は戦闘になると忽ち火達磨で、サボイアーマチェッティ機に至っては中国空軍でも爆撃機として使用に耐えず、輸送機として使う有様」な上、国民の寄付基金で500機造ったはずが91機しかなく、基金の差額が消える状況だった。
シエンノートは盧溝橋事件のすぐ後に南京に呼ばれ、7月31日の日記には「南京から秘密命令がもたらされた。戦争である。我が部隊は午後に移動を開始した」と書いている。戦争とは8月13日からの第二次上海事変だ。彼と蒋夫妻との協議頻度が増し、8月30日には蒋から1万ドルのボーナスを受け取る。
が、この時期の彼の働きはまだパイロットの訓練と日本の爆撃機の迎撃戦術立案程度だった。当時の米国の関心事は戦争に巻き込まれないことで、自国民の軍事関与を快く思っていない。が、中国空軍の増強は不況の米航空機産業には福音なので、シエンノートの動きは黙認されていた。
蒋は世界に支援を求め、米仏独蘭などのパイロット経験者が応じた。彼らは国際中隊に配された。この中隊にはポーリーが爆撃機30機を納めた。が、燃料満載で日本軍の済南基地攻撃に出ようとした矢先、日本空軍に爆撃され一瞬にして壊滅してしまった、とシエンノートは日記に書いている。
蒋の支援に真っ先に応じたのは、後に西安事件や盧溝橋事件の黒幕と知れるソ連だ。ソ連は37年12月の南京陥落前から39年末までに、航空機120機と義勇軍として人選した同数のパイロットと整備員を中国に送り込んだ。信用供与して航空機400機を売却し、パイロット養成学校も設立した。
ソ連の航空部隊は38年2月に台北の日本軍航空隊を爆撃した。これに刺激された中国空軍は九州にビラを撒いたが、航続距離の短いマーチンB-10では重い爆弾を積むと帰還が覚束ないという理由があった。頭を剃り上げたソ連パイロットは疲れを知らず、12時間ぶっ通しで機中で警戒態勢に当たった。
その38年12月、日本軍は漢口基地から重慶を初めて無差別爆撃し、3年間継続した。前年37年にスペイン内戦下のゲルニカをドイツのコンドル軍団が無差別爆撃し、ピカソが「ゲルニカ」を描いた。日本も戦争末期に米軍から同じ目に遭うが、重慶爆撃は筆者が日本を遺憾に思う数少ないものの一つだ。
さて、在米中国大使館はいくども米国務省に教官派遣を依頼して断られる。が、無差別爆撃の続く重慶の悲惨な状況下、シエンノートは「この戦争が米国を巻き込む大きな戦争に発展する」と確信し何度か帰米する。宋子文と共に、航空機500機のための借款を米国に要請し、39年にモーゲンソー財務長官は少額の借款を受け入れる。
シエンノートはモーゲンソーに「一団の米国人パイロットが中国空軍の先兵として日本軍に当たり」、戦闘経験を積むことが必ずや米国のためになると説く。モーゲンソーはその気になったが、マーシャル陸軍参謀総長やスティムソン陸軍長官は乗り気でなかったらしい。
マーシャルの懸念は「米国人の乗った飛行機で日本を攻撃すれば、米国の準備が整わないうちに日本の反撃を受ける」ということだった。しかし現実には、日本の真珠湾攻撃の遥か前から、中国大陸南部やビルマ北部では米国義勇軍と日本軍は空で干戈を交えていた。
1940年10月に至り、ローズベルトが口頭承認して米国義勇軍AVG(American Volunteer Group。フライングタイガースは後の呼称)結成の運びとなる。「費用、装備、人員は米国が支弁し、中国空軍の識別マークで日本と戦うという異例の航空部隊」だ。中国の要望は戦闘機350、爆撃機150、訓練機150、輸送機10とそれに見合う乗員と予備品、兵器と弾薬、飛行場14など膨大だった。
モーゲンソーと共に米国義勇軍の派遣に貢献したのはラクリン・カリー大統領補佐官だ。歴史好きなら、ハルノートの草稿を書いた、モーゲンソーが最も信頼する部下ハリー・ホワイトやこのカリーがソ連スパイとしてヴェノナ文書に登場しているのを知っている。
1941年早々、ローズベルトはカリーの中国派遣を承認する。彼は「米国から顧問を派遣し、経済的、軍事的支援を行い、中国を大国に相応しい敬意をもって遇し、蒋介石をして民主的な改革を行わせしめるのが得策」と提言する。これはローズベルトの考えと一致していた。
41年3月には「武器貸与法」が米国で議会承認されるが、同年4月に結ばれた「日ソ中立条約」を、日ソ両国の暗号を傍受していた米国が事前に知らないはずはない。吉田教授も、日本が南進に向かうと米国が読んで中国の支援強化に出た、と示唆している。
1941年6月の「タイム」に「100機のP-40がビルマに到着済で、それに乗り込んでビルマ公道の防衛に当たるのは米国陸軍航空隊の精鋭」と報じられほど公然のことだったようだ。こうしてみると日中航空戦で日本は、前半はソ連と、後半は米国とそれぞれ宣戦布告もなしに戦っていた。
まだまだフライングタイガースとゼロ戦の戦い振りやシエンノートとスティルウェルの確執など話は尽きないが、残念ながら紙幅が尽きた。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。