参院選総括:本音と建前の見直し抜きに日本は変わらない

マスコミの政治的偏向

参議院議員選挙が終わった。自民・公明の与党は概ね現状維持。野党は立憲民主党に収斂が進む一方、れいわ新選組やNHKから国民を守る党が予想外に議席を獲得し注目を集めた。既成政党が「現状維持」の範囲内で整理される一方、既成政党に反対する勢力が一定の存在感を示した。

自民党サイト、れいわ新選組サイト、N国動画より:編集部

後者、特にれいわ新選組に警戒は必要だが現在の議席数なら活動に限界があり当面は既成政党主導による政治が行われるだろう。

それにしても今回の選挙戦ではマスコミの政治的偏向が目立った。安倍首相への演説妨害が行われたにもかかわらず朝日新聞は公職選挙法への抵触については「ヤジを飛ばす行為は含まれない」とか「警察の政治的中立を疑われても仕方がない」といった意見を紹介し演説妨害を事実上、支援した。

言うまでもなく公職選挙法に反しない行為だからと言って正当とは限らない。演説妨害が既存の法に触れないならば、それは単なる法の不備の問題に過ぎない。

次期国会では演説妨害に確実に対応できるよう公職選挙法や警察官職務執行法などの関係法の改正の議論が強く望まれる。

政治的偏向は朝日新聞だけではない。自民党の和田政宗議員は選挙運動中に物理的攻撃を受けたが、これに対してCBCテレビ報道部のツイッターが「ちょっと小突かれただけで、暴行事件とは。大げさというより、売名行為」とツイートとした。

演説妨害や政治的暴力を行う者を非難せず、事実上、容認・支援する姿勢は論外であるし、何よりもこうした過激分子がリベラル系マスコミを介して国政に不当な干渉を加えるのではないかという疑念が生じる。

こうしたリベラル系マスコミの姿勢を国民が非難しても彼(女)らは政治的偏向を止めないだろうし、勢い余って「規制すべきだ」とか「解体すべきだ」と主張すればリベラル系マスコミの関係者は満面の笑みを浮かべながら「報道の自由の危機だ」とか「民主主義の危機だ」と叫ぶに違いない。強い非難は彼(女)らを勢いづかせるだけであり要注意である。

マスコミの本音と建前

マスコミに期待されていることは「事実を報道する」ことだが、実際は「事実を作ろう」とする姿勢が強く、これはリベラル系マスコミに顕著である。

主権者たる国民はマスコミの政治的中立を期待しているが、実際、それは果たされず、国民がそこに反発を覚えるのは当然だが、一方でマスコミと政治家との物理的距離を考えればマスコミに政治的中立を求めることはやや現実離れしているとも言える。

政治家側も物理的距離の近い、頻繁に接触するマスコミ関係者に対して自らに有利な報道を求めることは好ましくないが避けられないように思える。

だからマスコミの政治的中立は「建前」であり「本音」は違う。

このことをもってしてマスコミを批判するのは早計だろう。というのも本音と建前はどの職業にもあるからだ。

重要なのはこの本音と建前の関係である。

「建前に過ぎない」と「建前はこうなっているから…」とでは受ける印象は大分違うのではないだろうか。

建前はともすれば無視される危険性があるが、一方で本音をむき出しに主張することを抑制する効果がある。

マスコミが持つ本音と建前もそれ自体に問題はなく建前が持つ本音の抑制効果が失われていることが問題であり、それがマスコミの政治的偏向を招いていると言えないだろうか。

本音と建前はお互いを意識してこそ両者一体となって機能し、そこから拝聴に値する「主張」が出てくる。どちらかが突出したり欠けたりして両者の関係が崩れれば聞くに堪えない暴論が出てくるだけである。言うなれば本音と建前は車の両輪である。

筆者は反響が極めて大きいマスコミの「規制」や「解体」を主張するよりもまずマスコミにおける本音と建前の存在を認め両者の関係を立て直すことでマスコミの政治的偏向を抑制するほうが現実的だと考える。

具体的には報道記録の公開であり、特にテレビの報道記録の公開が重要である。このことについては既に記した。

ジャーナリズム改革は国民の権利である

既存マスコミの存在を否定するのではなく存在を肯定したうえで報道記録を公開することがマスコミの政治的偏向の抑制に繋がるのである。

本音と建前の見直しを

今、日本で破滅的な未来を想像するものは少数派だろうが、漠然とした不安を抱える者は多数派だと思われる。

漠然とした不安が社会を覆っている理由として本音と建前の関係がバランスを失している状態で政治・社会の議論がなされているからである。

日本の成長が鈍化して大分たつが、その最大の原因は高齢化である。老化に伴う肉体的衰退により自立が困難となり他人の支援を必要とする者が増大しているからである。

一般論として人間の寿命が伸びることは良いことであり、これに反対する者は基本的にはいない。しかし良いことだからこそ高齢化に伴うマイナスについて真剣な議論がなされず、その結果、高齢者を支える若者への投資も不十分になっていないだろうか。

左派は大企業への増税を主張するが、大企業から徴収した税金が高齢者福祉に使われることに若者は納得するだろうか。

我々は「高齢化」と「若者政策」についてもっと「本音」で語るべきではないか。

参議院議員選挙の結果を見ても国民は既成政党に政治を任せた。国民の多くは破壊的改革を望んでいない。あくまで現状維持を基礎とした改革を支持している。

本音と建前の見直しは小さくない摩擦を生むだろうが「破壊」までには発展しない。

要は胸襟を開いて政策論争するだけである。破壊を伴わない改革すら恐れていては何も進まない。足踏みしていれば成長は鈍化から停滞となり結局、衰退に向かうだけだろう。

そうした事態を避けるためにも今、日本社会にある本音と建前について議論を深めてみてはどうだろうか。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員