大谷、豪快15号、ソロ同点、という見出しの記事がヤフーのニュース記事の中に大きく報じられていた。エンゼルスの大谷翔平選手にとって後半戦初のホームランだ。海外に住む日本人の活躍は嬉しい。イチローや野茂投手の時も確かそうだった。
大谷選手の活躍は大リーグの話だが、この嬉しいニュースを読んでから1日をスタートするのと、そうではないのとでは明らかに気分が違う。朗報が少なくなったからだろうか。京都アニメーションの放火殺人事件は最近では暗いニュースだった。オーストリアでも東京発の外電で大きく報じられた。ウィーンでは子供が母親をナイフで殺害したニュースが起きたばかりだ。
当方がロビンソン・クルーソーのように無人島に住んでいたら、大谷選手の活躍はもちろん知らないだろうが、京都の放火事件もウィーンの殺人事件も知らずに生活していただろう。夕食のための魚とりに余念がなかったはずだ。
インターネット時代の到来で人間を取り巻く生活環境が大きく変わった。地球の裏側の出来事も直ぐにリアルに知ることができるようになった。世界的知識人の講演を大学に行かなくても傾聴できる。カナダ・トロント大学心理学教授だったジョーダン・ピーターソン教授の話をソファーに座ってコーヒーを飲みながら聴ける。まさに時代の恩恵だろう。
ところで、人間は昔より幸福になっただろうか。科学技術は進歩したが、それを享受する人間はあまり発展していないのではないか。人間社会は発展しているが、その発展のテンポは遅い。前者が急速に発展するので、後者との格差は益々広がってきた感じがする。
ダーウィンの進化論を学んできた現代人は、人間は進化する存在だと信じてきたが、科学技術の世界ではその通りだとしても、人間の精神的世界は余り進歩していないように感じるのだ。現代人はPCやスマートフォンを駆使し、地球の裏側で開催されているスーパーボールを観戦する一方、紛争と戦争、殺人と嫉妬が渦巻いている世界に依然、生きている。
ところで、オーストリア日刊紙プレッセは27日1面トップで「クラウン(ピエロ)が政治の世界で活躍してきた」と報じていた。現代はクラウンの時代だという。当方も数日前、道化師の活躍についてその社会的背景をコラムに書いた。クラウンが人々の痛みや悲しみを少しでも軽減するために存在しているとすれば、クラウンが活躍する時代は人間にとって幸せな時代ではないことになる(「政界は『道化師』の活躍の舞台に」2019年7月23日参考)。
クラウンはポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)を笑い飛ばし、現代人の憂鬱な思いを可能な限り軽減してくれる。だから、クラウンは時代の寵愛を受け、人気者となるが、彼らが活躍する社会や時代は幸福な世界とは程遠い。
現代人はクラウンが語る内容やパフォーマンスを見て笑いだしたり、カタルシスを感じるが、その後味の悪さに耐えられなくなって、新たなクラウンを探し出す。その繰返しかもしれない。その意味で、クラウンは消耗品だ。
数日前、直径100メートルほどの小惑星が地球を通過した。その数日前には同じような小惑星が地球に衝突する危険性があったが、幸い、通過してくれた。昔もそうだったろう。無数の小惑星が人々が住んでいる地球に衝突していたかもしれないが、人々は衝突する瞬間まで小惑星の接近に悩まされることはなかったはずだ。現代人は人類の誇る科学技術の発展で快適な生活を享受する一方、不必要な懸念や恐れを払しょくできなくなった。多くを学び、多くの情報を知ることが人間の幸せに通じる、という楽観主義的世界観は今や暗礁に乗り上げてきた(「地球衝突リスクの高い『小惑星』の話」2019年7月20日参考)。
現代人が薄々感じている憂鬱は、例えば小惑星が地球に衝突する危険性があることを知ってしまったからだろうか。そうではないはずだ。「知ること」が不幸や不安をもたらすのではなく、知っても何もできない、という無力感が絶望となって跳ね返ってくるからではないか。21世紀の運命論者だ。彼らは多くのことを学び、知っているが、絶望的なまでに憂欝だ。
人間自身の運命と、その運命の前に頭を下げざるを得ない現実との間で人は憂鬱となる。繰り返すが、「知ること」を通じて憂欝となるのではなく、知ってもそれを変えることができない自身の無力感に打ちひしがれてしまうからだろう。
最後に、聖書の観点から上記の話を考えてみた。「エデンの園」に生命の木と善悪を知る木があった。人類の始祖、アダムとエバは神のようになりたいという思いから、その善悪を知る木の実を食べた。それを知った神はアダムとエバをエデンの園から追放した。神が激怒したのは、アダムとエバが善悪を知ったからではなく、神の戒めを破ったからだとすれば、神と和解する以外にその絶望的な状況から抜け出すことができないことになる。
私たちは、ロビンソン・クルーソーのように孤島で生きる必要はなく、大谷選手の活躍などを知りながら、神との和解を求めていく以外に他の選択肢がないだろう。知っても何もできない、という絶望感、無力感から解放される唯一の道は、知って、それが実行できる存在(神)との和解しかない、という理屈が生まれてくる。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年7月29日の記事に一部加筆。