傷ついたのは、普通の人

悲しい知らせが続いている。

母校一橋大学でのヘイト事件

「一橋大の米国人男性准教授が授業時にヘイトスピーチ」在日コリアン大学院生が国立市に人権救済申し立て:毎日新聞 

そして、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる一連の騒動だ。

津田大介氏一問一答「希望になると考えたが劇薬だった」:朝日新聞デジタル

これらの事件で傷ついたのは誰だろう?前者においては、被害者の大学院生梁さんだけではない。この事件を知っていた、そして今回の報道で知った普通の人である。

後者においても、津田大介氏と、例の企画展や、その中でも少女像を中心に注目が集まるが、イベントを楽しみにしていた人、さらには他の出展者も傷ついていることを忘れてはならない。

もう今さら触れるべきことではないかもしれないが、数年前にオリンピックエンブレムをめぐる問題が起こった。その際、非常勤講師をしているムサビの学生から涙ながらのメッセージをもらったことがある。パクリ疑惑の当時者であるデザイナーの問題だけでなく、実は、デザインを仕事にするということについて、希望を持てるのかという話でもある、と。

多摩美術大学の佐野研二郎葬式ごっこ問題を考える(常見陽平) – Y!ニュース 

多摩美術大学 佐野研二郎葬式パフォーマンス 弔辞全文(常見陽平) – Y!ニュース 

前提として、脅迫は論外だ。表現の自由を脅かすものも許してはならない。

今回の展示は、有料入場者が、しかも4つの会場と多くのコーナーから選んで見る「クローズド」なものだ(もちろん、報道はされるから影響力はある)。表現の不自由展では例の像と、天皇の映像ばかりが話題となった。他の展示も気になる。

ただ、人を傷つける表現の線引きはどうなのだろう。芸術だったら何をやってもいいのか。

一連の流れを含めて問題提起したかったのかもしれないが。議論の起点にするつもりだったのだろうが。抗議→中止に至るまでのプロセスが表現の自由の問題や、現代の日本の問題を可視化したが、その「壊れそうなもの」前提で芸術祭をやるのはどうなのだろう。この展示は芸術祭の目玉だったのか。

このイベントで例の展示だけに、さらには芸術監督の津田大介氏を中心に注目が集まるのが私は残念だ。津田大介氏はジャーナリスト、メディアアクティビストであって、芸術家でもデザイナーでもない。ただ、その立ち場であるからこその何かを期待してしまう。もっとも、主役は彼なのか。4会場で約2ヶ月行われる数年に一度の祭典だ。光が当たるのは多数のアーチストであり、観客であってほしい。津田氏が、出展者、関係者に取材をしたのはナイスだったが。

例の展示は終わってしまったが、名古屋に2年住んでいたこともあり。今週、娘を連れて見に行くことにした。見てからさらに語ることにする。自撮り写真が批判され続けている表現の不自由の当事者として。自由に生きて、駄目ですか?


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年8月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。