アゴラ研究所、池田信夫所長の論考「日本中を「バリアフリー」にするのは不合理だ」(アゴラ2019年7月29日)を拝読した際、以下の一文で腑に落ちることがあった。
異なる意見に「障害者差別」というレッテルを貼って糾弾するのは「人権団体」が批判を封殺するときの常套手段である。マスコミもそれを恐れて障害者の問題を批判的に扱わなくなったが、アゴラにはそういうタブーはない。こういう脅しに屈しないで、障害者の問題も事実にもとづいて冷静に論じていただきたい。(池田所長の論考より抜粋)
嵐(荒らし)の予感
7月5日に掲載された新田哲史編集長の論考「参院選特定枠:山本太郎が“おもちゃ”にすれば廃止論?」を拝読した際、れいわ新選組やNHKから国民を守る党に関する選挙戦略についての指摘が“正鵠を射”過ぎていて怖かった。新田編集長の論評が怖いのではなく、テーマがタブーの本丸を突いたので、読者としての覚悟が足りなかった私は、負の反響を恐れた。アゴラが荒らされる危険を感じたのだ。
その後、予想通りネガティブな反響はあったようだ。編集長はきっと苦労されたと推測しているが、アゴラ自体は良い意味で活性化している印象しかなかった。そのような中で、いつも和ませて頂く早川忠孝氏の7月28日の論評「国会議員の介助の費用は、れいわが持つべきじゃないかな」に対して「早川氏の主張は障害者差別」という論考がアゴラに掲載されたのは印象的だった。(その後、当該記事への補足説明も掲載された)
アゴラに脅しが通用しない理由
このタイミング(29日)で冒頭の池田所長の論考に接し、私はアゴラとアゴラに投稿する方々の覚悟の深さを思い知った。例えば新田編集長は、編集次第でヒールにされかねないにもかかわらずAbemaTV(7月26日)に御出演されるなど、主張のためにリスクもとれる理由がよくわかった気がした。
要するに、アゴラには、約2400年前に地上の広場アゴラで活躍していたソクラテスたちの魂(精神)が宿っているのだと、私は理解した。それは脅しが効かないわけである。覚悟の深さが「正義を守るためには死も恐れない」水準なのだ。
そこで、現代のアゴラから連想されるソクラテスの言葉を列挙したい。正しくはプラトンが書き残した「ソクラテスの言葉」である。
なお、言葉の出典は「ソクラテスの弁明」と「クリトン」(世界の大思想1プラトン「国家他」、田中美知太郎 訳、河出書房新社、1965年)だが、半世紀以上前の文章なので筆者が現代的に一部改変した。正確な訳は、ぜひ原典にあたって頂きたい。
大衆の思惑を気にするな
クリトン、なぜわれわれは大多数の者の思惑を気にしなくてはならないのか?気にすべきは特に優れた人たちのことであって、その人たちならば真実をそのまま受け取ってくれるだろう。大衆は何にしてもその場限りのことしかできないから気にすることはないよ。
正邪美醜善悪などについても同様に、われわれは多数の思惑を恐れてこれに従わなければならないのだろうか。それともまた、唯一人でもそれに通じている人があるならば、この人一人のことを恐れなくてはならないのではないか。
事に通じた者より通じていない大衆を恐れるということは、正しさによって向上し不正によって滅びるところの魂(精神)の破壊である。
よく生きること
「よく」という言葉を「正しく」や「美しく」をという言葉と同義とするとき、大切なのは「ただ生きること」ではなくて「よく生きること」である。そうでなければ魂が破壊される。
まとめ
マスメディアは、編集権を錦の御旗にして、視聴率や売上のためにフェイクストーリーも創作し大衆や特定団体に阿って偏向報道もする。その中で、ファクトを大前提とする自由な言論空間であるアゴラの存在は大変貴重である。
巨大ポータルYahoo!の朝日化が懸念される現在において、いかなる冊封体制からも独立を保ちつつアゴラが月間PV1000万越えを達成したことは、多くの日本人にかけられた「偏向の魔法」が解け始めている証しであろう。
某政治家の二重国籍問題への追及が象徴するように、控えめに言ってもアゴラこそが「社会の木鐸」である。心からの称賛と感謝を申し上げる。
田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。