国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になったことを受けて、「人を不快にする芸術」が満たすべき条件について考えてみました。
この場合の「人を不快にする芸術」というのは、「美しいものをつくったつもりが、結果的に人を不快にしてしまうものになった」という意味ではなく、「意図的に人を不快にする要素を芸術作品に盛り込むことで、何らかのメッセージを伝えようとする作品」のことを指します。
1.大義
人に不快な思いをさせたり、反感を買ってまでも自分の芸術作品を展示するには、その不快感や反感を上回る大義が必要です。
「これまで目を背けていた事実に気が付いてほしい」、「これまで注目されてこなかったこの問題について考えてほしい」、「これまでと異なるものの見方をしてみませんか」等のアピールにより、一時的には不快になっても、結果的に世の中が良くなる方向に作用することが期待できる内容であることが必要です。これがなければ、単に人を不快にさせるだけで終わってしまいます。
ところで、「表現の不自由展・その後」展には、どんな大義があったのでしょうか?
2.信念
人を不快にさせる作品を人の目に触れるところに展示するのだから、当然、反発が起こります。中には展示を中止させようとする人も出てきます。
「人を不快にする作品」を展示させるためには、そのような反発に対してぶれない信念が必要です。反発が起こって、それに屈して安易に作品を取り下げてしまえば、「表現の自由があるはずなのに、反対運動が起これば、芸術家は世の中の反発に屈して作品を取り下げる」という悪い前例を作って、これから作品を発表しようとしている人の活動に悪影響を与えてしまいます。
ところで、「表現の不自由展・その後」展の関係者には、どのくらい強い信念があったのでしょうか?
本当に強い信念があれば、展示するスペースを自分たちで確保して、運営や警備の費用もクラウドファンディングか何かで集めれば、改めて作品を展示することは何とかなるように思われますが、それをやらない理由は何なのでしょうか?
3.戦略
見る人を不快にさせる作品を展示するのだから、それを見て不快に思った人は抗議の声を上げたり、様々な方法でその展示をやめさせようとします。その様々な妨害を予測して対策を講じておかなければ、その作品を展示し続けることはできません。
反発を受けて引き下がらざるを得ない状況においこまれれば、作品を発表しないのと同じ状況となってしまうため、自分の主張を表現し続けるためにも、反対活動をどのようにかわすのかの作戦を考えておくことは、自分の主張を世に問うための必要条件の一つです。
強烈な反対が予想される場合には、最初の展示場で展示をやりきる方策だけでなく、最初の展示場がダメになったときに、二の矢三の矢を用意しておくぐらいのことはやっておく必要があります。
ところで、「表現の不自由展・その後」展の関係者には、どのような戦略があったのでしょうか?
展示内容を考えれば、相当過激な妨害活動も予想されるということは相当緻密な戦略が必要なようにも思われますが、傍目には緻密な戦略が見えてこないのはなぜでしょう?
4.誠実性
一つの芸術作品が展示されるだけで、伝えたいメッセージが明確に伝わるわけでもないので、反発が起これば、「何を訴えたいのか、なぜそのメッセージを訴える必要があるのか、そのメッセージが社会全体に伝わればどのようないいことがあるのか」を誠実に説明していくことが必要です。
そして、何より反発する人にも言論の自由があるので、その権利を尊重する姿勢も必要です。反発する人にレッテルを貼って攻撃したり、コロス・リスト加えるなどと言うのは最低の対応です。
ところで、「表現の不自由展・その後」展の関係者からは、どのような説明があったのでしょうか?
大した説明がないのは、「本当は訴えたいことが何もないから」と考えていますが、いかがでしょうか?
「表現の不自由展・その後」の評価について
私の評価では、「1.大儀」については作品を作った人は「大儀がある」と思っていたように思うのですが、2~4については、ほぼ0点を付けざるをを得ないと考えています。
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井上 孝之
1980年代の洋楽の世界では「BBCが放送中止にした」というのが最大のPRフレーズだったことを懐かしく思い出している技術系サラリーマン。個人ブログ