各報道は21日までに、北太平洋のミッドウェー岩礁沖で発見された沈没船2隻が旧日本海軍連合艦隊の空母「加賀」と「赤城」と判明したことを報じた。発見したのは、少し前にレイテ島沖で戦艦「武蔵」を発見した故ポール・アレン氏(マイクロソフト共同創業者)の財団の調査チームだ。
マイクロソフトといえば、ビル・ゲイツ氏が環境問題への関心から原子力や石炭火力を使った安全で高効率な発電システムの研究に私財を注ぎ込んでいるのとは対照的に、ポール・アレン氏は慈善活動の傍ら兵器オタクでも知られ、生前から戦時中の航空機収集や沈船探査を行っていた。
このニュースを本稿の題材にしようと思ったのは、各報道が「加賀」や「赤城」が「撃沈」されたと報じていたからだ。筆者は戦争オタクではないので太平洋戦記に詳しい訳ではない。が、日米戦争の帰趨を決したミッドウェー海戦には情報戦(シギント)の側面から興味があった。
1930~40年代はシギント(Signal Intelligent:信号通信諜報)の勃興期に当たり、それまで主流だったヒューミント(Human Intelligent:人的諜報)に加えて、無線や有線の暗号通信化と傍受通信の暗号解読がようやく実践の役に立つ水準に至った時期に入っていた。
日本も明石元二郎や石光真清(四部作)で知られるヒューミントからシギントの併用期に入り、複数の通信暗号を持っていた。米国はそれらを外交暗号のレッドやパープル、海軍暗号のコーラル(武官用)やジェイド(艦載用)など色で呼んだ。パープルの解読文はマジックと称された。
日本の外交暗号やコーラル(JN19)が米国に解読されていたことは、東京裁判で明らかにされた日米交渉中における日本の甲案乙案の誤訳などで知られている。が、最も重要な海軍暗号のジェイド(JN25)をいつの時点で解読していたのかを、米国は未だに公式には明らかにしていない。
だが真珠湾攻撃当時、情報部長としてキンメル太平洋艦隊司令長官の部下だったエドウィン・レイトン提督が1985年に出した回顧録『And I Was There』で、「JN-25は1942年2月まで破れなかった」と書いた。それでもパープルやJN19の解読で真珠湾には間に合ったということだが・・。
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そこで「加賀」や「赤城」が沈んだミッドウェー海戦の話になる。周知の通りこの海戦で連合艦隊は一敗地に塗れた。この海戦が日米戦争の帰趨をほぼ決定したといって良い。艦や航空機や酸素魚雷などの優秀さのみならず兵の練度のおいても、日本には敗れる要素がなかったのに。
加えて、日本海軍は空母と高速戦艦を世界に先駆けて組み合わせた、未曽有の威力を持つ第一航空艦隊を有していた。だのになぜ敗れたのか。それは良くいわれるようにシギント、つまり情報戦で負けたのだ。海戦があった1941年6月5日~7日の4ヵ月前にはJN25は破られていた。
英国の歴史家ジョン・コステロは『The Pacific War』(l981)で、英国が先にJN25を解読し、1940年11月26日にローズベルトにそれを伝えたとの仮説を書いている。真偽のほどは解らない。が、チャーチルの大著『第二次世界大戦』にはそれを暗示する表現が頻出する。いくつか挙げると・・。
(1942年5月7~8日の珊瑚海海戦の後)ニミッツ提督は自分の全勢力が要求される大事件が北方に起こりつつあることを良く知っていた。・・レキシントン損失はミッドウェー島海戦の後まで秘密にしておいた。日本が真相を確認しておらず、情報を探っていたのは明らかだった。
山本(五十六)は思うがままに作戦を行う自信があり、とりわけ高速戦艦については大いに優勢なので、敵を殲滅させる見込みも十二分にあると確信していた。彼が部下の南雲提督に授けた計画の大要はそうだった。
しかしこの米国提督は用心深く、しかも積極的だった。彼の情報機関は彼に終始よく情報をもたらし、予想される攻撃の日付まで知っていた。・・フレッチャー提督は情報源から敵の航空母艦が北西からミッドウェーに接近すると信じるだけの理由を持っていた。
日本軍の計画の厳格さ、そしてそれが予定通り進展しない場合に放棄するという傾向は、主として日本語の厄介で不正確な性格のためであったと思われる。日本語は信号通信によって即座に伝達を行うのが極めて困難なのであった。
米国の情報機関は敵の最も厳密に守る秘密を、事の起こるよりはるか以前に見抜くことに成功した。かくてニミッツ提督は敵より弱体であったにもかかわらず二度にわたって正しい時と正しい場所にある兵力全てを十分に集中できた。
胸糞が悪くなるのでこれくらいにするが、「二度にわたって」とは珊瑚海海戦のことだろう。つまり、真珠湾の前には英国が糸口を見付けていて、それを米国がその体力に飽かせて翌年2月頃にはものにしていたことが知れる。英国が生んで米国が育てるところは原爆開発と時期も経過も似ている。
1953年にノーベル文学賞を獲る同書をチャーチルは1948年から書き始めた。作戦や兵の動きや戦況推移など、その記述は極めて微に入り細を穿っている。原爆実験成功をポツダムで知らされた辺りも興味深いがここでは省く。そして人口に膾炙したミッドウェーの戦況も胸糞悪いので省く。
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最後は筆者座右の小室直樹氏と日下公人氏との対談本『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社)のエピソードなどを主体に、表題にした「自沈」の話などを書いて稿を結びたい。
「加賀」と「赤城」の報道は、どれもこの「2隻が撃沈された」と述べていることは書いた。船の沈没には一般に「撃沈」、「轟沈」、「爆沈」などがある。「轟沈」とは数分以内に沈没するのをいい、「爆沈」とは戦艦「陸奥」のように爆薬庫などが爆発して沈むことなので敵の攻撃でない場合もある。
「加賀」と「赤城」について日下氏は「味方の魚雷で処分したんですからね」といい、小室氏は「引っ張って帰るところをまた攻撃されるかもしれないけど、何が何でもという覚悟があれば弾いて帰れましたよ」と述べている。つまりは両艦とも「撃沈」ではなくて「自沈」だった(「加賀」は諸説ある)。
気が滅入るが最後に「雷爆転換」の話。定説は、島の飛行場の一次攻撃を終えてなお敵空母が見つからないので二次攻撃すべく、爆撃機は「雷→爆転換」した。そこへ敵空母発見の報が入り再び爆→雷転換しているところへ敵機の猛攻を受け、甲板は火の海と化したというもの。
ところが同書によると、聞き書きが得意な澤地久枝氏が、後に当時の関係者を自腹を切って料亭に招待し、「雷爆転換した」という者に、その時あなたはそこにいたかと問うと、現場で立ち会った人は一人もおらず全て伝聞だったと判った。
そこで澤地氏は、司令部は最初から二次攻撃のつもりで爆弾を装着させていて、しかも索敵機から頻繁に敵艦隊発見の報が何度も入ったのに、爆→雷転換の命令を出したのはかなり経ってからのことだった、つまりは陸上基地破壊に固執した司令部に責任あり、と結論した。
これには小室・日下両氏も「それは大発見」と感心しきり。澤地氏は1980年代半ばにミッドウェー海戦の日米の戦没者全員を特定する偉業を成し、「滄海よ眠れ」と「記録ミッドウェー海戦」を編んだので、その一環での取材だったのだろう。
だがどうだろうか、何人を料亭に呼んだのか知らぬが、海戦で何千人もが戦没した中、生き残った一部の者らの話が全て伝聞だったからとはいえ、定説を覆すほどの根拠といえようか。「アベ政治を許さない」を発案した澤地氏が「東京裁判での南京事件の証言も全て伝聞だから」という理由で否定するなら、この仮説を信じなくもない。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。