夏が来れば思い出す「御巣鷹山」と「東京裁判」:米国人弁護士の衝撃発言(アーカイブ記事)

2019年8月13日掲載記事の再掲です。

毎年8月になると筆者は「御巣鷹山」と「東京裁判」を思い出す。前者は日本航空123便が御巣鷹山に墜落し、乗員乗客520名が犠牲になったいわゆる日航ジャンボ機墜落事故のことだが、なぜ「東京裁判」を一緒に思い出すのかといえばその理由はこうだ。

その晩、仕事を終えて同僚と食事をし、家族が帰省して灯の消えた大阪近郊の社宅に戻ったのは夜9時過ぎだった。テレビを点けて映し出された記録映画らしきモノクロ画面の下部に、次から次へと人名が流れている。暫くしてそれが墜落した飛行機の乗客名であり、映画は「東京裁判」と知れた。

際限なく人名が流れる画像が先の大戦の犠牲者と重なって否応なく脳裏に焼き付いた。筆者が東京裁判とその米国人弁護士の一人ベン・ブルース・ブレークニーに興味を持つようになったのはそんな経緯からだ。本稿では東京裁判でのブレークニーの弁論の一端を紹介してみたい。

法廷で弁論に立つブレイクニー(NHK「ドラマ東京裁判」より)

東京裁判とは、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが1946年1月19日に極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言書と共に発した極東軍事裁判所条例に基づいて、46年5月3日から48年11月12日まで423回にわたって市ヶ谷の旧陸軍省大講堂で開かれた極東国際軍事裁判の通称。

つまり東京裁判は連合国11カ国の協定で成立したのでなく、米国統合参謀本部の指示の下に連合国軍最高司令官が一方的に設立を宣言し、連合国各国に参加を求めた裁判であり、“勝者たる連合国”が“敗者たる日本”の戦争犯罪者、即ち「平和に対する罪」を犯した“A級戦犯”を裁く裁判だった。

公判開始から間もない46年5月14日、弁護側から裁判所の管轄権の否認と公判棄却に関する動議が提出され、引き続き東郷・梅津両被告担当の米国人弁護人ブレークニーが弁論を開始したが、弁論の途中で日本語通訳が中断したまま休憩に入ってしまうという珍事が起きた。

日本語速記録のこの部分は「以下通訳なし」と記されているのだが、1982年8月に封切られた小林正樹監督の記録映画「東京裁判」の実写フィルムの字幕によって、我々日本人は東京裁判から37年を経て初めてブレークニー弁護士のその衝撃的な弁論の内容を知ることになる。

記録映画「東京裁判」は3年後の85年8月12日にテレビでも放映された。34年前のその晩、偶然に私が観たのがまさにそれだった。そんな訳だから、その時点ではブレークニー発言の字幕に関する印象はない。が、今日では講談社版DVDでもまたYou tubeでも、何時でもそれを見ることが出来る。

そのブレークニー発言は以下のようだ。

国家の行為である戦争の個人的責任を問うことは、法律的に誤りである。なぜならば国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対するものではない。個人による戦争行為という新しい犯罪を、この法廷が裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからであり、犯罪としての責任は問われなかった。

キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪(*訴因39)になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名も承知している。彼らは殺人罪を意識していたか、してはいまい。我々もそう思う。

それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからでなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、如何なる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる、この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる、その人達が裁いているのだ。

ブレイクニーの弁護(映画「東京裁判」より:編集部)

東京裁判では日本人弁護人に混じって延べ23人の米国人弁護人が、A級戦犯容疑者である被告人25名の弁護を担当した。昨日まで敵国として戦った米国人の弁護人の存在は、東京裁判が法廷の装飾までを模したニュルンベルグ裁判との違いを際立たせたことのひとつだった。

ニュルンベルグ裁判では英国の弁護士会が、「戦犯の弁護は一切引き受けない」と申し合わせたことからドイツ法曹界だけで弁護を行ったのだが、東京裁判では、次のようなインドが関係する背景から多数の米国人弁護人が活躍することとなった。

1945年11月、英国はインド国民軍の将校を反逆罪で裁く軍事裁判をインドで開いた。この裁判に連合国側の日本人証人に同行した内閣戦争裁判連絡委員会の太田三郎は、インド人弁護士の優れた弁護ぶりに驚嘆すると同時に、東京裁判での英米法系裁判に通じた弁護人の必要性を痛感した。

そこでキーナン首席検察官に米国人弁護人の斡旋を依頼する一方、自らも広く募ったところ、BC級裁判を担当したファーネス、ローガン、ブレークニーら十数名の米国人弁護士が名乗り出た。そして連合国側も、この裁判の“勝者の裁き”の色彩を薄める思惑からこれを認めたのだった。

米国人弁護士中もっとも異彩を放ったブレークニーが主に関わった三事案、即ち「日米交渉」、「原爆投下」そして「ソ連参戦」の重要性は、東京裁判研究論文の中で最も優れたものの一つであるリチャード・マイニアの「東京裁判」の次の記述からも窺い知ることができる。

問題は、他の「犯罪者」が処罰されずにいるにとどまらず、それらの「犯罪者」が「日本の犯罪者」を裁こうとしていることであった。太平洋戦争の戦勝国も、東京裁判で起訴された日本人たちと同種の行為を数多く手掛けていたことは、疑う余地がない。ここでは、そのうちの二種の行為を見ておけば十分であろう。「ソ連の対日宣戦布告」と「アメリカの原子爆弾投下」がそれである。

マイニアが触れていない「日米交渉」で、直接参戦への口実を必要としていたローズベルトは日本の在米資産凍結や石油・鉄屑禁輸などを行う一方で、通信傍受によって日本の出方を知悉しつつ日米交渉を継続し、日本をして開戦に誘導した。そこでのブレークニーの弁論が以下だ。

即ち、41年4月16日の「日米諒解案」から11月26日のハルノートの送達まで行われた「日米交渉」で日本側は、11月5日の御前会議で最終案ともいうべき「帝国国策遂行要項甲乙二案」を裁決し、野村大使に交渉要領を注書きして訓電した。

ところが米国側が傍受した電信には酷い誤訳があった。ブレークニーは米国側のこの誤訳について、「この両者(原文と傍受訳文)を比較して一読すれば、国務省が読んだ電文を書いた無謀にして冒険的な賭博者と、その大使に慎重訓令した真面目な責任ある政治家の区別がつくであろう」と述べた。

検察側が提示した傍受文英訳の誤った邦訳文と、ブレークニーが比較のため示した日本側原文との相違例は次のようだ。(下線は筆者)

・甲案前文における日本の駐兵期間に関するもの。(乙案分は省略)

原文

本案は修正せる最終的譲歩案にして左記の通り緩和せるものなり。(註)所要期間について米国より質問ありたる場合は、概ね二十五年を目途とする旨を応酬するものとす。米側が不確定期間の駐兵に強く反対するに鑑み、駐兵地域と期間を示し、以ってその疑惑を説かんとするものなり。この際はあくまで「所要期間」なる抽象的字句により折衝せられ、無期限駐兵にあらざる旨を印象づくるように努力相成たし。

米国誤訳

本案は修正せる最後通牒なり。左記の通り我が方の要求を加減した。(註)適当期間につき米側より質問ありたる場合は、漠然とかかる期間は二十五年に亘るものと答えられたし。米側が不確定地域への我が駐兵に強く反対しおるに鑑み、我が方の目的は占領地域を換え、官吏の異動をなし、以って米側の疑惑を解かんとするものなり。我が方は従来常に曖昧なる言辞を以って表し来るところ、貴官においては出来る限り不徹底にして、しかも快適な言辞を為し、これを婉曲に並べ、無期限占領にあらざる旨を印象付けるよう努力相成りたし。

日本はこの甲乙二案で、交渉開始後初めて和平成立後に駐兵する地域を限定し、北支、内モンゴル中部、海南島を除く全中国大陸及び仏印からの撤兵を約束したのだった。ところが、米国傍受の通信翻訳は著しく不誠実かつ敵意に満ちた誤訳で、米国は日本に誠意なしとして26日のハルノートに結び付いた。

パルも判決文で次のように述べて、この誤訳を難じている。

確かに電報の起案者は、大使に訓令を送るにあたって、“いま一度交渉継続を賭す”というようなことは考えていなかったのである。彼の通信文にはそんな射幸的なものや、また何ら駆け引き的な精神はない。事態の重要性に対する彼の認識、交渉が、本当に打ち切られたままとなった場合の、自国の運命に対する彼及び閣僚全員並びに統帥部によっても同様に感じられていた深刻な憂慮の表示、その誠実さ、これらが全部傍受電文では失われているのである。

裁判終了後もブレークニーは日本に残り、東京に法律事務所を開設する傍ら東大や慶応大で日本の学生をハーバード式に鍛えた。が、不運にも1963年3月4日、夫人と共に沖縄に向かうため自ら操縦していたセスナ機の遭難事故で亡くなった。墜落場所はもちろん御巣鷹山ではない。

奇しくもその場所は…裁判で刑死した松井石根大将が日中両戦没者慰霊のために建立し、久保山の火葬場から掘り出された刑死者7名の遺灰が隠された興亜観音のある熱海伊豆山からそう遠くない天城山だった。享年55歳。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。