前日「『神』は離婚していた」という話を書いたが、ユダヤ教のトーラ(モーセ5書)の作成者が拘った最大のポイントは「ユダヤ民族の神は唯一、ヤウェ」という信仰だ。換言すれば、ユダヤ民族に入り込んだ多種多様の「神」を崇拝する偶像崇拝を追放し、ヤウェ信仰を復興することだった。
「唯一神教」に拘る宗教人を現代人は理解できないかもしれないが、この問題はひょっとしたら21世紀の最大の問題だろう。イスラム教過激テロ事件が世界至る所で拡大し、多くの犠牲者が出ているが、その発端が唯一神教の信仰に起因しているからだ。
自身が信じる神が唯一、絶対と受け取る信仰者にとって、他の神を信じる群れは異教徒であり、異端者だ。イスラム教過激派は「キリスト信者やユダヤ教徒は神に反する無法な群れだ」ということになり、彼らを抹殺することが自身の信じるアラーの神への忠誠の証と考える。
米同時多発テロ事件以降(2001年9月11日)、世界に拡大してきたイスラム過激派テロは自身の神を唯一絶対と受け取り、他の神の存在を認めない神観に起因している。もし、「私はアラーを信じるが、あなたがイエスを信じても問題ではない」と寛大に考えることができれば、異教徒への聖戦とか十字軍戦争といった宗教戦争は発生しないだろう。
しかし、問題は複雑だ。イスラム教徒ではなくても、何らかの信仰を有する人は自分が信じている神を唯一、絶対と考えるからだ。その信仰姿勢は間違っていない。「私が信じる神はあなたの神よりいいが、彼の神よりは少し劣るかもしれない」といった信仰は考えられない。信仰は自身が受け入れた真理、教えを絶対視することから始まるからだ。
ローマ・カトリック教会の前法王べネディクト16世(在位2005年4月~13年2月)は相対主義を厳しく批判した。絶対真理は存在しないという相対主義の終着駅はニヒリズムとなる危険性が出てくる。絶対真理が存在せず、真理は相対的なものに過ぎないと考えれば、信仰は生まれてこない。自分の神こそ絶対であると信じない限り、どうしてその神への帰依が生まれてくるだろうか。
それでは唯一神教が存在する限り、宗教に基づいたテロ、戦争は回避できないのだろうか。信仰者が「私は自分の神を絶対に信じているし、その教えを真理と受け取るが、他の人が別の神を絶対視し、それを信じていても、それは各自の権利だ」と考えることが出来れば問題はないが、信仰の生命力が失われるかもしれない。
ちなみに、キリスト教会もイスラム教も自身の教えを広げるために宣教活動に乗り出す。唯一神の中でユダヤ教だけは宣教活動をしない。
愛を説き、寛容を称える宗教人がどうしてテロや殺害を行うのだろうか。教えと矛盾しているのではないか。「彼らは神の教えを勝手に解釈し、それを利用しているだけで、本当の信仰とは全くかけ離れている」といった批判の声が聞かれる。イスラム教過激テロ事件が起きるたびに、「あれはイスラム教ではない。本当のイスラム教はべつだ」といった弁明をイスラム教指導者(イマーン)からよく聞く。
神は寛容と愛の神というより、「妬みの神」でもある。神は自分を信じる者に他の神の存在を容認させない。旧約聖書の世界では選民ユダヤ民族と異教徒との戦いが常に繰り広げられてきた。「知恵の王」といわれたソロモン王ですら異教の神を最後は受け入れ、その結果、統一王国は滅び、南北に分断され、多くの王が出たが、最後は北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダはバビロン捕囚となって連れ去られた歴史がある。
神学者ヤン・アスマン教授は、「唯一の神への信仰( Monotheismus) には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的な唯一の神を信じる者は他の唯一神教を信じる者を容認できない。そこで暴力で打ち負かそうとする」と説明し、実例として「イスラム教過激派テロ」を挙げる。国際テロ組織アルカイダの行動にも唯一神教のイスラム教のもつ潜在的暴力性が反映しているというのだ。
同教授は、「イスラム教に見られる暴力性はその教えの非政治化が遅れているからだ。他の唯一神教のユダヤ教やキリスト教は久しく非政治化(政治と宗教の分離)を実施してきた」と指摘し、イスラム教の暴力性を排除するためには抜本的な非政治化コンセプトの確立が急務と主張している(「『妬む神』を拝する唯一神教の問題点」2014年8月12日参考)。
唯一神教は既に賞味期限が過ぎた宗教だろうか、将来は多神教の世界が制覇するだろうか。それとも、「神の存在」を抹殺することで、唯一神教、多神教といった論議に終止符を打つことになるだろうか。その答えはまだ分からない(「旧約の『妬む神』を聖書から追放?」2015年5月7日参考)。
世界には多くの自称キリスト、メシア(救い主)が存在する。「メシア会議」すら開催されている。世界の神が結集した「神会議」が開催され、そこで「アンチ・テロ宣言」が採択され、全ての国民、民族、国家の文化を網羅した「世界経典」が作成されれば、世界は少しは良くなるかもしれないが、その時を迎えるまであとどれだけの犠牲が「神の名」によって払われるだろうか。
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「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年11月3日の記事に一部加筆。