日本は分別ごみに非常にうるさい国です。決められた日に決められたものをきちんと捨てないと近所から苦情が来るのですから日本人のまじめさがよくわかります。シェアハウスを運営していて何が大変といえば外国人へのゴミの仕訳と捨てる日を教えること、また、道路脇のごみ捨ての場所と捨てる時間を守るという日本独特のローカルルールの徹底には実に骨が折れます。特にラテンの人にはゴミ捨ての認識がかなり違う人も多く、時として泣かされます。
さて、日本は環境問題にセンシティブか、鈍感か、というお題に対して鈍感とは何事か、とお怒りになる方もいらっしゃると思います。確かに分別すること、それをリサイクルしていると考えられている点においては確かに世界でもトップクラスだと思っています。
ではそれほど優秀な国民なのになぜ、大阪湾でレジ袋300万枚、ビニール片610万枚もある(読売より)報じられているのでしょうか?あるいは深刻な琵琶湖の廃プラゴミ問題でも今年6月にゴミさらいをしたら6割がプラゴミだった(京都新聞)という報道もあります。これらは氷山の一角で日本全体レベルでみれば環境に優しいとは言えない可能性はあります。
韓国では18年8月からカフェなどで店内での使い捨てカップの使用が禁じられています。持ち帰りならいいのですが、店内で飲むのに使い捨てカップはだめなのです。あるいは韓国の大型スーパーではもはや持ち帰りの袋が有料化どころか、ビニールそのものを提供すると違反になります。
カナダでスーパーに買い物に行くときは買い物袋やカート、ラックはマストのアイテムとなりました。もちろん、ビニール袋を求める客はいますが、有料だからというより「ビニール、使うの?」という冷たい空気を感じます。最近は酒屋(BC州は原則州が経営する半官半民の経営です)で酒を買っても「ビニール袋、いるの?」と確実に聞かれます。プレッシャーを感じるのです。その点、来年からスーパーのビニールが有料化になると報道される日本はすでに周回遅れもいいところなのであります。
ではリサイクル。本当にリサイクルされているのか、といえば基本は燃やすと認識していただいてよいと思います。その比率6~7割ぐらいとみています。なぜ燃やすかといえば狭義の意味でのリサイクルは簡単ではないのです。リサイクルの方法の一つ、マテリアルリサイクルでは何度もリサイクルするとプラスティック分子の劣化が指摘されています。ケミカルリサイクルではコストと設備が膨大。というわけで焼却することで熱再生という手法を取っており、小泉大臣もそれを支持する意見を述べています。
ですが、私から見るとリサイクルや分別してきちんと捨てればいいのか、というそもそも論に引っかかってしまうのです。日本に行くとプラスティック容器と向き合わない日はないでしょう。水のボトル、買い物ビニールだけではなく、私が最も注目しているのは弁当や総菜の容器であります。弁当屋やスーパーからすれば陳列と効率化を求めるのだろうと思います。なくすのは無理ですが、これがもう少し減らせないのでしょうか?つまり、総量が減らない点において鈍感ではないかと思うのです。
最近、私は肉を買うとき、冷蔵コーナーに展示されているものではなく、肉屋のカウンター越しに注文することが増えてきています。プラ容器はないのでその分環境には優しく感じます。昔、日本の肉屋では肉を竹の笹に包んでくれていたのを覚えている方はいますか?竹の笹は通風性と防腐作用があるとされています。良いものを持っていたのですが、すっかりお見掛けしなくなりました。
私は店舗が工夫をしてプラゴミを減らす仕組みを作り、市民レベルでの展開こそが日本でのプラゴミ総量の抑制になるのではないかと感じています。日本はそもそも過剰包装の国と言われています。このあたりも含め、考え直す時期にありそうです。環境省も難しいとらえ方よりももっと市民レベルで何ができるのかわかりやすいメッセージを送ってみたらどうかと感じます。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年11月20日の記事より転載させていただきました。