「青い鳥」は公立校でつかまえて:可能性を摘むのは何か?

田村 和広

物語の中では、探し求めた「幸せの青い鳥」は、結局一番身近な「家の鳥かご」にいた。現実世界でも、日本の閉塞状況を打開する人材は、実はすぐ近くに沢山いる。ただ多くの人はそれに気付かず、または文化と制度の制約から、その貴重な人材が放置されている。では一体どこにいるのだろうか。

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「青い鳥」はどこにいる?

「青い鳥」は日本中の公立小中学校や高校にいる。他にもいるが、今回はこの学生層に焦点を当てたい。

「発達障害」「ADHD」「ASD」「LD」「アスペルガー症候群」…、色々な分類があるがこれらの診断名が付く人々の中に、いわゆる「天才」や「ギフテッド」と呼ばれる知的能力が高い人がいる。(今後研究が進めば診断名と分類も進化するだろう。)

昔から偉人には数々の逸話があるが、その中にはきっと今なら診断名が付く人も少なくないだろう。アインシュタイン、ナポレオン、ソクラテス、チャーチル、ルーズベルト、「レインマン」、孔子、大村益次郎、山本五十六、山下清。数え上げたらきりがないが、何らかの能力で際立った才能を発揮した人達の考え方や生き方は、実に個性的だ。

知的障害を負いながら画家として活躍した山下清(Wikipedia)

筆者には判定する専門知識も資格もないが、様々な子供たちのつまずき原因を「深掘りして」分析する必要に駆られてこのテーマを独学で勉強した。その観点から日々子供たちを観察していると、知能が高いにもかかわらず、成長が遅かったり作業が遅かったり心の跳躍力が高すぎたり知的活動が多動だったりと、要するにバランスが悪いためにその学年で必要とされる「学力」の取得に失敗する子供たちがいる。

そして現在の社会と学校制度のもとでは彼らは「不出来な子」と分類される。あるいは「社会的知性」が低いとか「非認知的能力」が低いなどとされ、知的能力が高くない子供と社会的には同一の扱いを受ける。

これは筆者の私見だが「発達障害」の中には「成長速度が平均より遅いだけ」の子供がいる。「マスプロダクション」制度でもある現在の学校制度の中では、手がかかりすぎるがために「障害」とくくられてしまう子供が少なからずいる。(障害があるのは制度の方だと思う。)

彼らは年齢と共につつがなく成長し、大人になれば社会性は身に付く。しかし「止まることのないエスカレーター」である現行の学校制度において、取りこぼした知識が大きすぎて大学入試段階ではもはや挽回不能だ。「18~20才で身に付けておくべき」という無言の期限の定めもあるので尚更だ。

なお、「それらの診断が付く人が全て天才だ」とは言っていない。また逆に、公立中学・高校の出身でノーベル賞を獲得するような優秀な人材も沢山いる。付け加えると、豊かな家庭に育ち、私立中学・高校に進学していった「バランスの悪い天才児」は、手厚い指導のもと日本を支える人材となって行く。

現行教育制度の問題点:「豊富な種」が前提の栽培法

農耕技術の考え方は日本人が共有する暗黙知だと思うが、人間が対象である教育政策にも無意識レベルで適用されている気配を感じる。どういうことか。

例えば、ダイコン栽培では一つの植え穴に種を数粒まく。一粒だけでないのは、発芽不良による収穫ロスを回避するためだ。やがて発芽すると、数本の若いダイコンが育つが、しばらく後、一番健康そうな個体を残し他は摘んでしまう。なるべく商品価値の高いダイコンを1本育てるためだ。この方法は、種が豊富にあることが前提である。

従来の日本はこれと同じ発想で学校運営をしてきた。

1クラスに30人前後の生徒を配置する。担任は一人なので30人の生徒を細かく指導することは困難である。自然、生徒は自身と家庭による自助努力で学力を高めるしかない。その枠組みでは、授業中に歩き回ったり夢想にふけったりするような、個性が強すぎる生徒を、手厚く指導することは不可能である。費用と人的資源という物理的制約があるからだ。

やがて中学受験で選別され、高校受験で選別され、大学受験でも選別される。3段階で「優良」とされる生徒が選別され、「優良ではない」と判定された生徒には、生きにくい社会が待っている。このシステムには「子供が豊富に存在する」、「諸外国の先進文明を輸入すれば良い」という2つの前提条件があるが、発展(復興)途上段階の日本では、条件がクリアされていたので、極めて効率的に機能した。

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時代の変化で前提条件が消失

しかし、時代は変わり、それらの前提条件が既に成立していない。子供は戦後ピーク時の半分程度であり、寿命も延びた。そのため社会を支える若年層の比率は相対的に急低下し今後は一層低下する。

また、「知識・技術・サービスの輸入(=仕入)」と「工業製品やサービスの輸出(=販売)」が日本のビジネスモデルだったが今では中国に奪われてしまった。そのためあまり付加価値を生まない「再現(模倣)が優秀で平凡な」人材が豊富な日本が経済成長しないのは当然で、金融政策や財政政策でいくらお金を投下しても日本の成長には貢献せず、国際金融ビジネスに献金するだけである。(現行政策が有効ではない理由)

従来教育は決して悪くない

それでは今の教育は何が問題なのだろうか。

国際的な学力状況の比較(※)を大胆に要約すれば、

15才時点の日本人の学力は、読解力や科学・数学、そして問題解決能力に関してシンガポール・香港と共に上位グループを形成し、欧米先進諸国をおさえている。

参照:「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)の調査結果

(文科省ウェブサイトを参照の上、筆者が要約)

要するに「日本は教育によって総体的な国民の学力レベルを引き上げることに失敗はしていない国」と言えるだろう。では何が問題なのか。

従来教育は「コモディティ商品」の大量生産

日本の高度成長期を彷彿させるベトナムの工場(at./写真AC)

最大の問題は、従来教育が「出荷」しているのは大量の「コモディティ商品」(≒代替可能な汎用製品)だということだ。これではより安い他国の人材に代替されてしまう。

コモディティ商品を否定しているのではなく、人件費をはじめとするコストが相対的に上昇した現在、日本はそれ以前とは違う産業構造とそれを支える人材育成も必要になったということだ。

服は他国で格安に大量縫製される現在、日本の中学校でミシンの使い方を教えている場合ではない、ということである。あるいは、天才少年にIT技術の英才教育を施す途上国があるのに、豊かな日本で教育費よりも高齢者向け年金の充実に心を砕いていて良いのか、ということである。

「旭日東天」復活の鍵は、革新を生む「変わった人」

今や日本では、かつては自然発生していた「革新を生む」人材の育成が最優先課題である。

整理すると、現代日本では「子供が豊富」、「既存知識の獲得と再生産が得意な人材が価値を生む」という2大前提条件が崩壊し、農業的感性で粒ぞろいの国民を教育すれば良かった時代は過ぎ去ったのだ。良い悪いではなく、時代に合わせた制度変更が必要だ。

時代の変化に不適合な社会の壁

日本は「出る杭は打たれる社会」である。過去、有能な「変わった人」の多くが若いうちに潰されてきた。それぞれ尤もな理由がつけられているが、その根底には「嫉妬心」がある。その発展形の「悪平等」もある。嫉妬心で潰してしまう恐ろしい社会的圧力が日本にはある。

メディアの偏向報道はそれを反映した表層的な現象に過ぎず、偏向報道を営業的に成り立たせているのは日本社会自身である。

そして、「本当に価値を創造するかどうか」よりも、「礼儀正しいか」「良い人柄か」などの「社会的に好感を持てる人材かどうか」を評価基準として優先する社会が、常に「風変わりで創造的な人物」を排除する。

メディアの評判など気にせずに、これらの困難な社会的課題に取り組みリーダーシップを発揮できる指導者は登場するだろうか。

マグロのトロは今では人気食材だが江戸時代には廃棄されていた。脂が強く保存性の点でも扱いにくかったのだ。取り扱いに技術が必要だが「創造的人物」という宝を現代日本は未利用のまま廃棄している。

はたして日本は人材に関する育成制度と社会文化の価値観を転換し、再び明るい時代を迎えられるのだろうか。

田村 和広 算数数学の個別指導塾「アルファ算数教室」主宰
1968年生まれ。1992年東京大学卒。証券会社勤務の後、上場企業広報部長、CFOを経て独立。