揚州は隋の煬帝が愛し殺された場所でもある江都である。また、近世にあっては清国の乾隆帝もたびたび滞在した。気候が良く風光明媚であるのが理由だ。経済的には大運河の終点であり、安徽省出身の商人たちが拠点とした。近江商人が大阪で活躍したようなものだ。
また、グルメ都市としても遊興都市として知られている。唐の詩人・杜牧は、「江湖に落魄して酒を載せて行く 楚腰繊細掌中に軽し 十年一たび覚む揚州の夢」と青春の思い出を詠っている。
このあたりの水郷となだらかな丘陵の織りなす風景は、西日本出身者にとっては、懐かしい気分にさせてくれる。少なくとも東日本の風景よりはそうだ。私は日本人の大半は時期はかなり長い間に少しずつだが、江南からやってきた稲作農民を先祖にしていると思っているが、今回の旅行でますますその感を深めた。和風のものというのは、唐以前だとか南宋時代の中国文化が独自発展したもので、元・明・清時代に北方化したのが中国文化なのだ。
鑑真和上がいた大明寺へ行ったが、伽藍は日本の仏教界の援助などで近年、整備されたようだ。鑑真時代を想起するものはない。驚いたのは、お賽銭がいまやキャッシュレスで、仏様の前にQRコードが貼り付けていることだ。
このごろ中国ではスマホ決済が進んで現金も、外国のクレジット・カードも使えなくなっていると聞いていたが本当にそうだ。
揚州には、塩商人に大金持ちが多く、その一人が杭州の西湖をまねて造営した「痩西湖」という有名な庭がある。それをここ数年、整備してテーマパークになっているのだが、なかなか凄い。
日本の10月ごろの気候だが、遊覧船にのると風と紅葉が心地よい。煬帝や乾隆帝がこの地を愛してやまなかったのも当然だ。漕ぎ手は若い女性の船頭さんで、終点にある西太后接待のために歌舞を演じたバルコニーがある建物に近づくと、それにちなんだ歌など歌ってくれる。
東関街とかいう船着き場の町並みが、最近、復元されている。伊勢のおかげ横丁のようなものだが規模が違う。
揚子江は長江のうち揚州のあたりのことだけをいったのを、イギリス人が勘違いして長江の別名として使ったらしい。
その揚子江で揚州の対岸にあるのが鎮江だ。あいだに中州があるが、それを含めて三キロほどの橋で結ばれている。
鎮江は山西省と並んで黒酢の産地として知られているが、恒順というメーカーを見学。10年ものを土産に買ってきたがさすが。
揚子江に面した北固山という小山の上にある甘露寺というのは、三国時代の劉備と孫権の会見場としても知られる。眺望が優れているのはいうまでもない。
その麓の古西津渡街はかつての船着き場で、ここも、大規模に町並みが再現されている。京都のようにところどころ古い町家があるというだけでなく、街区全体が復元されている。この調子では、中国人に京都の町並み保存をしてもらった方がいいかもしれないなどいわれないようにしてほしい。
全般的な印象として、中国の若い人たちの感覚は日本化していると思う。また、漢服の流行面白い。日本の和服を呉服というのは、漢代あたりの中国の風俗を継承するものだ。中国ではその後、遊牧民族の詰め襟とか細い手の部分の服が標準になった。それを民族の本来の漢服を復興させようという動きだ。写真は一例だが、和服に刺激を受けたのも間違いない。
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授