評価する人が公平・公正でない科学の世界は健全か?

中村 祐輔

昨年12月20日のScience誌に「Rude reviews are pervasive and sometimes harmful, study finds」というコメンタリーが出ていた。ある発表論文が、「質の悪い論文審査が広がり、時として有害である」ことを指摘したことを受けてのコメントだ。

確かに、投稿した論文に対する的外れで理不尽なコメントが増えてきていると実感している。論文に書かれていることを、ちゃんと読んでいないことが明らかであるコメントも少なくない。科学の世界が健全に発展していくには、健全な批判・批評が極めて重要だ。

しかし、現実の世界を見ると、背景にある個人的な感情・偏見が、論文の評価に影響を与えていることは少なくないというか、増えてきた。

一般的には、論文を評価する際には、どのように改善すれば、投稿された雑誌に発表されるにふさわしいレベルに達するのを考えて評価する。読んでみて、箸にも棒にもかからないような内容の論文に対しては、科学的に見て決定的に致命的な問題点を簡単に書いて、この雑誌にはふさわしくないと返事するだけでいい。

ただし、これを正しく行うには、投稿された雑誌にふさわしいレベルかどうかを識別する能力が必要だ。その論文内における新しい発見が、非常に斬新なのか、過去の知見に比べてわずかな進歩なのか、他の論文結果を確認しただけなのか、論文の内容をしっかりと判断することが不可欠だ。投稿する側も自分たちのデータがどのレベルなのかを判断する責任はあるのだが、過大評価のものが多い。

そして、最終的な判断を下す編集委員の質も著しく低下している。評価者の求めることをクリアするのに6ヶ月―1年の追加実験が必要であるにもかかわらず、定型的なコメント内容で2ヶ月以内に論文を再投稿せよと言ってくることも多くなった。最終的な論文の採否を決める責任者は、著者に対して大きな責任を背負っているのだが、その意識がない人も少なくない。

そして、サイエンス論文は、偏見に基づく乱暴な論文審査の悪影響を指摘している。興味深いことに、偏見と思われるようなひどいコメントを受けた経験のある研究者の割合は、白人男性研究者には少ないが、女性や有色人種の研究者には理不尽な扱いを受けた経験のある(と考えている)人が多いようだ。”I didn’t read the manuscript because I’m sure it’s full of bad English.”というコメントを受けた著者もいたと述べられていた。

ここでは書けないようなスラングで罵倒された著者もいたようだ。私も米国人の共同研究者と論文をまとめ、彼が丁寧に直してくれた論文の英語の質が悪いとのコメントを受けたことがある。これなど、責任著者が日本人ということによる偏見の一種だ。

出版社によっては、質の低い評価者のブラックリストを作成しているところもあるが、もちろんこのようなシステムは必要だ。そして、スラングのようなコメントを著者に送りつけるような雑誌の編集委員の質も問題だ。数年かかってまとめた論文に対して、編集委員が何のチェックもせずに罵倒するようなコメントをそのまま著者に送るのは論外だと思うが、編集委員という肩書は欲しいが、その責任を果たしていない人がいるのが現状だ。

これは、論文審査の場合だけの問題ではない。国の研究費の審査でも、公平な評価が損なわれている。内容を全く読んでないとしか考えられないコメントで低い評価をつけた人が少なくない。再三再四、指摘してきたように、日本には評価者を評価する仕組みがない。研究費の審査の質は、国の将来に影響するが、この国だけではなく、科学の世界からは公平・公正という言葉が失われつつあるような気がしてならない。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2020年1月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。