偏差値ではなく標準点?念力主義が渦巻く教育改革

1月29日、大学入学共通テストの方針がようやく発表されました。

国語試験時間80分に短縮 数学は変更なし 来年の「大学共通テスト」方針(東京新聞)

大学入学共通テストの平成30年度試行調査(大学入試センター公式サイトより)

かつて社会学者の小室直樹氏は「念力主義」という言葉で入試改革を評しました。念力主義とは「偏差値よなくなれ!」と念力を飛ばすことで解決を目指す方法論を指します。

いやいや、さすがにそれは言い過ぎだろう、とも言えないのが恐ろしい。まずは、かつて偏差値が問題視され、中学校から見かけ上は消えた経緯について確認します。

一九八五年の臨時教育審議会以降、教育改革の方向として出されてきたキーワードには、「教育における個性重視」「教育の自由化」「学歴社会の是正」などがある。「学校教育の画一性」を打破し、「形式的平等主義」を廃する。受験競争のくびきから教育を解き放す。変わるべき方向として、個性や創造性の伸長を目指す教育の改革が提唱されてきた。

実際の政策面でも、学校五日制導入、単位制高校や総合科の創設といった高校教育改革、業者テストと偏差値の中学校からの排除と個性重視の入試改革、創造性や「考える力」を重視する「新学力観」にもとづく学習指導要領の改訂など、それまでの能力主義と平等主義をゆるがす改革が実施に移されている。

(苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』中央公論新社、1995年)

偏差値をなくすためには、学校現場から偏差値という言葉を消せばよいということですが、あまりに短絡的としか言いようがありません。受験生は適切な志望校を決めるため、自身の学力を計測したいという「不変の目的」があるうえに、その目的をサポートする学校の先生および、そのサポートがビジネスとなる受験産業があるわけですから、こんな単純な方法で偏差値が消えるはずはないでしょう。

事実、受験生たちは学校外で実施する業者テストで自身の偏差値を計測し、中学校では「標準点」なる謎の言葉が誕生しました。「偏差値54」という表記が「標準点54」に変わったわけです。当然、偏差値が消えてなくなることはありませんでした。

ある決定(偏差値という言葉を学校現場から消す)をした結果、どういった波及効果が各所・各人(学校、受験生、受験産業等)に及ぶかを十分考えずに政策を決めてしまう。こういった安直な方法は、たしかに「念力主義」と評されても致し方がありません。

今回の入試改革も同様です。「共通テストで記述試験を実施すれば、知識偏重の教育が是正される」とのことですが、実施後に学校・受験生・受験産業等にどういった影響が生じ、そしてどういった行動なり対策をとるかを検討したのでしょうか。

記述試験は延期されましたが、もし今後実施するならば「客観性を求める受験生の声が出る→客観性を重んじた記述式を実施→客観性があるため受験産業が容易に攻略しマニュアル化→目的は達成されず」といった未来を辿ることは容易に推測できます。

参考拙稿「失敗が目に見えていた入試改革

教育改革では誰しもが否定しえない素晴らしい理想がまず語られ、その理想(目的)が絶対視されたり、あたかも前提かのように扱われたりする傾向があります。結果、理想を達成するための方法論が議論されるものの、その方法論を制約するはずの諸現実(諸変数)は軽視されがちです。

理想からではなく、知識偏重の入試が生じている理由をまず検討すること。その検討を、審議会のような形ではなく、専門家たちが長い時間をかけて実施することが必要ではないでしょうか。

なお、現状の入試は知識偏重ではないとする論もあります。公募推薦・指定校推薦・AO入試の台頭がその理由です。

しかし、推薦入試を受けるためには学校内の定期テストで好成績を収める必要があり、しかもそのテストには「漢文が白文のまま出題されるため、丸暗記しないと解答不能」といった類の難問・奇問が目につきます。入試問題の方が、定期テストよりもマンパワーをかけて作成されるでしょうから、後者の方が些末な知識を要求される蓋然性が高いわけです。

推薦入試=知識偏重の入試ではない、という図式には賛同しかねます。特に、学校内で一定の成績さえ収めれば確実に合格できる指定校推薦については、より劣悪な知識偏重型の入試だと言ってよいでしょう。

一方、どう転んでも一般入試では合格できない生徒が、持ち前のコミュニケーション能力や上手い作戦を駆使し、AO入試を突破していることも事実。AO入試に向いている生徒からすれば、入試を突破する現実的な方法は複数あり、必ずしも知識偏重ではないことは確かです。(ただし、AO入試を受けるにしても、それ相応の学校内の成績は必要です。)