先日、ある招きで朝食会に参加しました。世界経済の潮流について元駐日カナダ大使がモデレーターを務め、3人の学者のパネリストを中心とした議論が展開されていたのですが、出席した約20数名のうち、民間企業人は4割ぐらいであとは北米の学者や政府関係者という顔ぶれでかなりレベルの高い議論に思わず身を乗り出して聞き込んでしまいました。
その議論の中で東大の教授が日本はインドとの連携をもっと強力に推し進めるべきだと主張したことに対して異論続出でその教授も並み居る世界の学者陣を説得できる論拠を持っておらず、かなり抑え込まれてしまいました。日印連携強化への異論で最も印象的だったのは日本とインドは文化的にも地政学的にも遠くないか、というものでした。
インド社会を述べるには私にはあまりにも稚拙な知識しかありませんが、その国家がどこの国に影響を受けてきたかによって現在の国家の源流を見ることができると考えています。そうするとインドは圧倒的に英国の影響を受けたわけで、それがどういう過去でどんな関係であったとしてもその歴史と社会的背景は消せないのであります。同様に香港も英国に、マカオはポルトガルに、上海の街並みが西洋的で交易をベースに経済の中心になったのもいわゆる歴史的背景というものがあると考えています。
事実、なぜ、インドやフィリピン、香港では一定以上のレベルの仕事をする人は英語をしゃべるのかといえばそれが生きる術であるということは重要な意味があると考えています。
ところが日本がインドと仲良くなりたいと思ったのはインドの巨大な市場、そして外交上の中国とのシーソー関係を考えたからでありましょう。本当に日本がインドに進出したいと思っているのか、正直10年も前からなぜだろうと思っていたのです。私もカナダでインド系の方とのビジネスはそれなりに多くありますし、親しくしている方もいます。でも正直、友達ならよいのですが、損得勘定が入るビジネスになると本当に大変な方々だという認識があります。
政府が仲良くするといっているのだから民間企業も仲良くせよ、と言われても困っちゃうわけです。政府レベルと民間レベル、社会的融合のしやすさ、相性などは全然別次元であるということです。
例えば日本はなんだかんだ言ってもアメリカとの関係が第一義です。これは50年後も同じはずです。なぜならそれが社会的背景であって社会のシステムや文化に深く浸透したものがあるからなのです。
アジアの国はそういう点からは欧米との一定の関係が常に背景にあるわけで、一国の経済発展にはその歴史的パートナー国との関係をいかに育んでいくかがポイントになるのでありましょう。
冒頭のパネルディスカッションの際、ある学者がデカップリングについて述べていました。それは米中の分裂を描きながら述べているのだろうと思いますが、今後、これは進むのだろうか、というものです。
幾人かの学者同士の議論の結果、全体的なデカップリングは起きないだろうが、部分的デカップリングは起きうるというところで落ち着きました。つまり米中ならば部分的闘争を通じて関係の疎遠化はあるが、国家同士として絶縁関係にはならないだろう、というものです。
日本が韓国と半導体部品を巡って激しく争いました。あれも一種の部分的デカップリングなのでしょう。日韓がそれで絶縁状態になったかといえば冷却期間はありましたが、じわっと戻しつつあるわけです。国民感情は派生的現象であって半導体部品問題そのものは双方がその行く道を見出して着実に歩を進めているわけですからあとは時間が解決するわけです。
デカップリングとはこんなもので1930年代に起きたブロック経済化の二の舞にはならないだろうし、もはやそんな時代ではないということを国家運営者は十分認識しているのではないでしょうか?
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年2月11日の記事より転載させていただきました。