教育の構造的改革

高校入学試験がほぼ終わり、結果待ちの人も多いと思いますが、私の塾からも希望校合格の声が聞こえ始めています。めでたいことではありますが、一方で勉強の在り方にも考えるところがあります。

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小学生高学年や中学生になると塾通いというのは都会ではごく普通の光景であります。塾に行かせる理由は希望する学校に行かせたいという親のたっての希望であります。

今や私立に行っても多額の補助が出る時代ではありますが、それでも公立に行かせたいという経済的理由の方もあれば、とにかくトップクラスの高校に行って将来は「有名国公立大学経由一流企業行き」というチケットを求める親もいます。公立中学が荒んでいるから私立中学に行かせたいという親御さんもいらっしゃいます。

カナダには塾という発想はほとんどありません。理由の一つにそんなところに行く暇がないほど宿題が出るという点であります。学校の本来あるべき姿を表しているのですが、日本の学校では親が先生に「子供の塾通いに支障が出るのでセンセー、あんまり宿題は出さないでくださいね」と懇願するのであります。先生も採点が大変だから暗黙の了解の関係にあるということになります。

カナダの子どもたちの宿題はレポート的なものもあり調べ物をしてそれをまとめ、発表したりするのですが、かなり突っ込んだものもあるようで夜遅くまでインターネットで調べ物をしているという話はよく耳にします。宿題の質が日本とカナダは違っているのでしょうか?

もう一つの違いは日本の高校、大学生は授業中、生徒/学生はよく寝ていますが、北米では寝ない点でしょうか?なぜ寝ないのか、と聞けば寝ているほど授業は楽じゃないと答えが返ってきました。

日本で昔から数多くあるクイズ番組。よくもこれだけいろいろ番組が作れると思いますが、その多くは知識量という記憶をベースにした問題であります。「難問」と称するものでも結局は辞書の片隅にあるような漢字の読みや歴史上の極めて些細なことなどを知っている人がIQ〇〇とか天才といった形でちやほやされます。

では我々が高校で習ったsin(サイン) cos(コサイン) tan(タンジェント)を今使う人はいるのでしょうか?一生懸命勉強したあれは何だったのでしょうか?電卓には√(ルート)の計算がついていますが、使う人はどれぐらいいるでしょうか?雑学的知識がそこまであるならなぜ数学的知識は放置されているのでしょうか?

先日東京にいた際、校友会の会議があり、その際に雑談のように出た話題が「大学が就職予備校と化しているこの現状を打破する必要があるのではないか?」というものでした。大学4年間は社会人への助走路となっている現実を見直さねばならないというわけです。もっともであり、当たり前の話なのですが、これを構造的改革として打破する方策を考えるということ自体に奇妙なおかしさを感じるのです。

先日、アメリカの大学は授業料が高すぎると述べました。そこまで高くする必要もないですが、日本もある程度授業料を引き上げ、大学への道と専門学校への道を分けるというのも考え方次第ではアリだと思います。その代わり大学や政府は収入の低い方に授業料の軽減措置や補助金、奨学金などのプログラムを充実させるという手はあると思います。引き上げた授業料で質の良い教授、先端の設備を整え、世界をリードする教育を施すという目標が必要ではないでしょうか?

今から20年もすればかつて必要とされた企業の「総合職」のニーズは激減するとみています。AIとITが進み、いわゆるマネージメントは極少人数の権限を委譲されたチームが運営するようになるとみています。人口も減っているため、全員スーツを着る必要もなくなるし、会社の数も今より大きく減るでしょう。

生まれる子供は現在90万人、大学の定員はおおむね60万人分ぐらいあります。大学進学率は53%程度なので20年後には希望者の大学全入時代が来ます。そこで大学の価値をどう維持するのでしょうか?ここが日本の教育の最大のネックだと考えています。

個人的には大学を卒業できるハードルを引き上げ、半数以上を英語での授業とし、大学の国際化を進め、若者に勉学を通じた刺激を与え、考え方の根幹を変えていく算段を取るべきと考えています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年2月27日の記事より転載させていただきました。