朝鮮半島分断小史⑤ 朝鮮民族が一致団結できなかったことが分断の最大要因

高橋 克己

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連合国は日本統治下にある朝鮮の戦後について、43年12月のカイロ会談後の声明の中で「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて小史①参照)朝鮮を自由かつ独立のものたらしむるの決意を有す」と宣言した。

カイロ会談で記念撮影する蒋介石、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル(Wikipediaより:編集部)

海外の臨時政府など一部を除き、朝鮮人の多くはその会談を知る由もない。連合国は、朝鮮独立は信託統治の後との認識だったが、朝鮮人がそれを知ったのは、45年10月20日のニューヨークにおけるヴィンセント国務省極東部長の「極東における戦後期」と題する講演の外電だった。

ヴィンセント部長は「長年日本に隷属していた朝鮮は、自治を行う準備ができていない」ので、「一定期間の信託管理を実施し、その間に朝鮮民衆が自主独立の政治を行い得るように準備することを提案する」との趣旨を、「それに先立ってソ連と意思疎通を図る必要がある」ことと併せて語った。

南朝鮮の「当初の反応」は反対一色、保守派の韓国民主党(宋鎮禹)、国民党(安在鴻)、独立促成中央協議会(李承晩ら)から、左派の人民共和国(呂運享)や朝鮮共産党(朴憲永)までが、挙って「信託統治は朝鮮人を侮辱するもの」との反対声明を10月末までに発した。

「当初の反応」と書いたのは、直後に朝鮮半島内が信託統治の反対派(反託)と賛成派(賛託)に分かれ、「米国とそれに付いた南の民族主義右派の反託」と「ソ連とそれに付いた北の左派や南北共産党の賛託」とが次第に対立を深めたからだ。追々理解が進めば幸いだが実に複雑。

李承晩の言動がそれを象徴する。李はヴィンセント部長講演の直後の22日に、「米国にいた時も信託統治を耳にした。自主独立の力がない時に実施されるものだから、我々も奮発して実力を付けねばならぬ」と、容認するかのような趣旨を述べていたのに、29日には一転「絶対反対」を表明した。

何より米国内部でも、ソ連の脅威を身近に感じているGHQのマッカーサーや朝鮮軍司令長官ホッジらと、ソ連との協調を模索したい国務省とに微妙なギャップが生じつつあった。

国務省の問題意識は、①38度線分断の解決をソ連と合意、②南北軍政の早期終了、③信託統治樹立、④国連への引継ぎという、ローズベルトがウィルソンの民族自決に基づいてカイロで提案し、スターリンも賛同した、一定期間の信託統治後の朝鮮独立を飽くまで進めることにあった。

他方、ホッジ将軍らには、これら国務省の方針が「多分にソ連に付け入れられ易い」との懸念があり、それは強固な反共である李承晩や韓民党の主張と一致していた。が、国務省は逆に、ホッジが李承晩や韓民党を指導層に立てれば、ソ連も北で同じことなし、分断が長期化すると考えた。

こうした中、12月16日から米英ソ外相のモスクワ会談(〜26日)が始まった。まず米国が分割占領から生じる課題(交通、商業、財政、難民など)の討議を提案したが、ソ連は、それらはハリマンからモロトフに書簡で提起された枝葉小史④を参照)ゆえ、独立や信託統治を討議すべきと述べ、米国も了承した。

モスクワ外相会議前にポツダムで一堂に会した会議参加者。後列左2番目からベヴィン外相、 バーンズ国務長官、 モロトフ外相。前列は左からアトリー首相、トルーマン大統領、スターリン書記長(Wikipediaより:編集部)

会議の結論も同様に、米国提案にソ連が対案し、米国がそれをほぼ受け入れる形となった。すなわち米国は「やがて」をかなり遠い将来の独立として、米ソ両軍政の監督の下に統一行政機構を置いて諸課題を解決し、米英中ソによる信託統治(5年間、必要なら延長)に進む案を提起した。

ソ連案は、信託統治を5年間に限り、その間は朝鮮人の自治政府である臨時政府を樹立して米ソ両軍の支援の下で独立を準備するというもの。両案の違いを単純化すれば、朝鮮人の参画度合いが米国案では浅く、結論となったソ連案では深い、ということになろう。

だのに朝鮮人は一斉に反発した。それには協定要約文の第一報を伝えた29日朝の「東亜日報」が、「4ヵ国による信託統治を実施すると同時に、臨時政府を樹立して朝鮮の将来の独立に備え、信託統治期間は最高5年とする」と、信託統治に比重を置いた伝え方をしたことにも問題があった。

ジョン・リード・ホッジ(Wikipediaより:編集部)

ホッジは29日昼に各党領袖を呼び、公電を示しつつ、米ソ両軍代表の共同委員会を設け、同会が各政党や団体を集めて臨時政府を組織する、朝鮮独立を援助する信託統治が要るか否かは4ヵ国管理委員会が決定する、など説明し、信託統治が主権侵害でないことを強調した(小此木前掲書)。

しかし反対は覆らなかった。既に存在する臨時政府の金九と宋鎮禹の韓民党の反対が特に強硬だったが、その理由は異なった。金九は民族の自決権を無視した旧態依然たる連合国に反発したのに対し、韓民党は日治期に総督府に協力した親日派と見做して彼らを支持しない民衆の意向を忖度したとされる。

共産党も妙だった。29日の「信託排撃大会」では明確に反対、31日の「託治反対総動員委員会」でも朴憲永が常務委員に就いた。が、翌年1月2日、朝鮮共産党中央委員会は「モスクワ会談の決定を慎重に検討した結果、同協定を支持する」と声明したのだ。北のソ連軍政の意向が働いたのだろう。

その北でも、支持は南と同じく左派の政党と団体で、反対は民族右派の曺晩植率いる朝鮮民主党だった。曺の反対理由は金九と同じく、朝鮮民族の自治能力を無視する大国の利害のせいで独立が5年も先になることだった。が、直後に曺はソ連軍に拘束され、以て北での反対は沙汰止みになった。

こうした左右の朝鮮人の対立が、米ソの政策に跳ね返えることになる。すなわちそもそも信託統治を提案した米国は、賛成する左派にではなく、頼りにはするが反託の民族右派を重用する一方、信託統治には当初受け身だったソ連が、それに賛成する左派を利用したのだった。

朝鮮戦争に南侵説と北侵説があるように、半島分断にもソ連責任と米国責任説がある。前者では初期には李承晩北侵説が、後には金日成南侵説が定説になった。一方、半島分断では、当初唱えられたソ連責任説が、後にブルース・カミングスらが主張する米国責任説に取って代わったとされる。

米ソに視点を置けばその理屈になろう。が、日治下の朝鮮人に視点を置くなら、それに進んで協力した者、面従腹背した者、抵抗入獄した者、地下潜行した者、そして海外亡命した者ら様々な立場が存在した。が、果たして彼らは8月15日を機に、満を持して表舞台に進んで躍り出たのだろうか。

否、むしろ自らの意思とは無関係に突然、国際政治の激流に突き落とされたのではなかったか。本稿①〜⑤で言及した期間は、45年8月10日から翌年1月初のたった4ヵ月に過ぎない。米ソが慌てるほどの日本の早過ぎる降伏と爾後のことに、蚊帳の外にいた朝鮮人が備えられるはずもない。

結局、北では、朝鮮のガンジー曺晩植でも元祖共産主義者朴憲永でもなく、ソ連が最も扱い易いソ連帰りの金日成が指導者になった。南では、総督府が真っ先に頼った宋鎮禹でも呂運享でもなく、在米30年の利で米軍政との距離感が絶妙だった李承晩が大統領となった。様々な立場の者が自己主張に明け暮れて団結できなかった結果といえよう。

左から曺晩植、朴憲永、金日成、李承晩、宋鎮禹、呂運享(Wikipediaより:編集部)

その後、45年5月の米ソ共同委員会実質破綻と共に信託統治は消滅し、南の李承晩政府と北の金日成政府の固定化を経て、48年5月の南単独の総選挙、8月15日の大韓民国樹立、9月9日の北朝鮮民主主義人民共和国樹立と進んだことは周知の通り。

最後に筆者のタラレバをいえば、米国が一晩で急ごしらえし、ソ連に提案した朝鮮関係の「一般命令第一号」で、「38度線以南」小史①参照)でなく「鴨緑江以南の日本軍は米軍に降伏する」としていたら、スターリンはどう答えただろうか、に尽きる。