河田東海夫
元原子力発電環境整備機構(NUMO)理事
元核燃料サイクル開発機構(JNC)理事
トリチウムを大気や海に放出する場合の安全性については、処理水取り扱いに関する小委員会報告書で、仮にタンクに貯蔵中の全量相当のトリチウムを毎年放出し続けた場合でも、公衆の被ばくは日本人の自然界からの年間被ばくの千分の一以下にしかならないとの試算結果が示されている1)。
安全上全く問題ないレベルである。しかるに巷間ではトリチウムの危険性を過剰に煽る言説がネット上などで拡散している。そうした情報発信の急先鋒は、北海道がんセンター名誉院長の西尾正道氏(泊の原発訴訟にも関与)で、各地の脱原発団体が催すシンポジウムや勉強会に招かれ、精力的にトリチウムの危険性を説いてまわっている。
西尾氏は、がんの小線源治療の専門医という肩書と、断片的な専門知識と風聞を織り交ぜた書き物や玉石混合の多彩なデータを張り付けた講演資料で、読者や聴衆を惹きつける術に長けている。西尾氏のトリチウムに関する主張の要点は以下の3点に集約できる2)。
①有機結合型トリチウム(OBT)は体内に長くとどまり、通常の水素に代わってDNAの分子構造に取り込まれると、ヘリウムへの壊変で分子結合が破壊され、その損傷がベータ線の電離作用による損傷に上乗せされる。したがって、ベータ線のエネルギーがいくら低いと言っても安全な訳がない。
②実際に原発周辺でトリチウムによる小児白血病発症率の上昇などの健康被害報告がいくつも出ている。
③そもそも政府や事業者が依拠する国際放射線防護委員会(ICRP)の放射線防護学は、核兵器製造や原発推進のための非科学的な物語で構築されており、内部被ばくの深刻さを隠蔽している。
西尾氏が①で指摘する分子結合破壊によるDNA損傷の現象自体は事実だろうが、ここで彼はDNAには素晴らしい損傷回復機能が備わっているというもう一つの大事な事実を語らない。
細胞生物学者によれば、1つの細胞中では活性酸素の影響などで1日当たり数万回のDNA損傷が起き、それが毎日修復さているという。損傷修復に失敗した場合にはその細胞を自死させる作用(アポトーシス)があり、さらに免疫作用があるため、個々のDNA損傷が発がんにつながる確率は限りなく小さい。
がんの専門医である西尾氏はこのことは当然熟知しているが、トリチウムの危険性を誇張するために、この事実への言及を意図的に避けている。一般大衆を前に、医者として、科学者として不誠実極まりない。
塩分は取り過ぎれば人体に有害だが、少なければ全く問題ない。放射線も全く同様で、有害かどうかはその量の多寡によってきまる。
最近の学説によれば、人体は37兆個の細胞からなるという。一方トリチウムを海洋放出する場合の上限基準値(告示濃度)は60,000ベクレル/リットルである。乱暴な仮定だが、体内水がすべてこの濃度のトリチウム水に置き換わったとして、細胞1個内でのトリチウムからのベータ線放出数を概算してみると年間3個程度にしかならない。
細胞1個内で毎日数万回のDNA損傷・修復が繰り返されているという事実に照らせば、放出基準程度の濃度のトリチウムの生体影響は無視しても問題ないことは明白である。
放射線治療の専門医である西尾氏が量的効果の話を避けるのは、DNAのミクロな破壊現象のみを語ることで読者や聴衆に恐怖心を植え付けようと目論んでいるからに他ならない。
なお、西尾氏が主張するトリチウム内部被ばく危険論には、2018年11月30日開催の処理水取り扱いに関する小委員会における茨城大学の田内広教授の説明資料からも、放射線生物学の視点から明らかな誤解や誤りがあることがわかる3)。
②でいう健康被害報告は原発訴訟団体などが取り上げているものであるが、ほとんどが正規の疫学情報とはみなし難い。
唯一ドイツのKiKK研究と呼ばれる報告書が、きちんとした疫学分析で原発近傍で小児白血病の発症率が有意に高いという結果を示している。しかし、報告書原文では「この結果は今日の放射線疫学上の知見からは予想しがたく、距離依存性の原因は不明」と述べており、トリチウムの内部被ばくが原因とは言っていない4)。
欧米では小児がんに関する公的機関等による疫学調査結果がいくつも公表されているが、いずれも原発による放射線影響は自然界からの被ばくに比べて極めて小さいことから、小児がん発症率変動の原因とする説は否定されている5-9)。
西尾氏は事実を歪曲するとともに、ここでも都合の悪い調査結果はひた隠しにする。
③は、欧州放射線リスク委員会(ECRR)科学議長のクリス・バズビー氏の主張の完全な受け売りである。
バズビー氏(緑の党員)は福島第一事故の年の7月に「内部被ばくの世界一の権威」として市民団体に招かれ、各地での講演や記者会見で、「200m圏で40万人の発がん増加」、「100km圏内北西部の住民は直ちに退避すべき」などと、盛んに低線量被ばくの危険性を煽った。
しかしその後、その裏で被ばく抑制効果があるとする怪しい高額サプリの日本販売に関わっていることが英国ガーディアン紙(2011年11月21日)で暴露され、一挙に信用を失墜した10)。そもそもECRRは名前は立派だが、緑の党が設立した一つの市民団体に過ぎず、彼らの被ばく評価手法の恣意性や非科学性については多くの専門家から批判が寄せられている。
カナダが開発したCANDU炉は、重水を減速材に使用し、その一部が原子炉内で発生する中性子との反応でトリチウムを生成させることから、他の形式の原子炉に比べ、環境へのトリチウム放出が格段に大きい。
特にオンタリオ州には3つの原発が集中しており、例えば2015年の実績でみると合計で1,500兆ベクレルのトリチウムがオンタリオ湖とヒューロン湖に放出されている。
この年間放出量は福島原発の処理水中トリチウムの総量を大きく上回る。1990年代はじめに、原発周辺で小児白血病などの上昇傾向が認められるとの報告が出たこともあり、トリチウム放出の影響が疑われて地元で反対運動が起こるなど、住民の不安解消は事業者や規制当局にとって長年の課題であった。
こうした中、カナダ原子力安全委員会(CNSC)は、1990年から2008年までの間のオンタリオ州内原発周辺における放射線被ばくとがん発生の関係を調べた総合的な疫学調査(RADICON Study)の結果を2013年に公表した。その調査結果によれば、原発から25km圏内における小児がん発生率は、0~4歳、0~14歳のいずれの年齢層においてもオンタリオ州の他の地域と同等で、有意な上昇は認められなかった4)。
トリチウムの生体影響は非常に大きく、実際に健康被害が出ているという西尾説が正しければ、CANDU炉が集中するオンタリオ州でその被害が最も顕著に出るはずであるが、上述の19年間分の疫学調査データはそれを完全に否定している。
現実にトリチウムで健康被害が出れば、訴訟問題に発展するだろうが、筆者がカナダの知人を通じてCNSCのスタッフに確認したところでは、現地ではそうした事例はまったく起きていないという。その一事が、西尾説が悪質な脅しに過ぎないことを雄弁に物語っている。
参考文献
10)Post-Fukushima ‘anti-radiation’ pills condemned by scientists, The Guardian, 21 Nov 2011,
以上のほか、以下が関連文献として参考になる。
カナダ原子力委員会によるKiKK研究の評価
11)Fact Sheet: The KiKK Study Explained, Canadian Nuclear Safety Commission
西尾氏が引用するグリーンピースの報告
上記に関するR. V. Osborne氏(カナダ原子力学会)の批判書