北里柴三郎の「面白い」人柄と業績④

松本清張の推理小説を彷彿?ペストの伝染経路追跡エピソード

明治32(1899)年の演説は、その年に神戸で発生したペスト患者のうち20名について、その実名や素性や暮らし振りやらを今日ならほぼ訴えられるに相違ないほど詳細に述べ、外国の貨物船がもたらしたと思しきペストの伝染経路を追う話だ。語弊があるとの指摘を覚悟して言えば、その推理過程が松本清張の小説を読むようで実に「面白い」。

明治末期の門司港(関門航路事務所サイトより)

演説は、門司に着いた船の客が「検疫を受けた時分少し熱が出て居って怪しかったが、そういう者が居れば1週間の停船を蒙るから、船の者がつい上げてしまった」と始まる。その者が1日2日のうちに広島で死んでしまい、検疫医が腫れた鼠径腺を切開して顕微鏡で調べると果たしてペスト菌が出た。

同じ頃、神戸にも怪しい死者が出た。1番目と2番目の家は、入港した外国船の掃除で出た綿屑を扱う矢田某の向かい、3番目の綿打ち女も矢田某から古綿を買っていた。4番目は2番目の家の法会で経を上げた坊さんで、5番目の蝋燭屋は糸屑を芯に使っていた。6番目は綿打ち女の亭主という具合。

北里柴三郎(Wikipedia)

柴三郎は、船の綿屑にペスト菌がいて綿打ち女はそれに「感じた」とし、その亭主が「感じたのは人から人に伝染したと言ってよい」が「その外は確かな原因」が判らないとしつつも、「人から人に感ずるのでなくして、こう伝播するのはどうかということを攻究しなければならぬ」と続ける。

そして話は11月19日から2週間に神戸で集めた死んだ鼠58匹、生きた鼠3,031匹に及ぶ。五番目に「感じた」者の家の死鼠にペスト菌があり、一番目の近くの死鼠にもあった。十一番目は貧民部落の10歳の女児で、「避病院に隔離して」家を大掃除すると死鼠が4匹おり、どれからもペスト菌が出た。

特に「面白い」のはその4匹。飼っている百羽程の鶏に船で掻き集めた南京米の粉を与えていた。鶏は「ペスト菌があっても感ずることはない」が、その粉米を「鼠が食ったに違いない。そしてペストに罹ったらしい」。「米の残りがあったなれば、試験をして面白い結果を得たでしょう」という。

これらを踏まえて柴三郎は、「今度のペストのみならず、何処でも人より先に鼠が感ずる、或いはこれは人の病気でなくして鼠の伝染病であって、人はそれをご相伴をして居ると云う位の説を立てて居る」とし、「ペストに鼠程危険なものはない。その予防撲滅の法は鼠狩りが一番必要と考える」と述べた。

この二つの演説はペスト菌を媒介する「蚤」に触れていない。が、10年下った明治42(1909)年に「日本に於けるペスト蚤説の証明」なる演説を行い、「日本に於けるペスト流行と蚤との関係は今回の研究で初めて明白となり蚤説は確固たる証明を得た」と述べている。*淡路島由良での詳細調査

ペスト菌発見の混乱顛末

演説は最後に、香港で同じ時期にペスト菌を発見した在仏印のパスツール研究所員エルザンについて触れている。二人の論文の相違点は、エルザンがペスト菌をグラム陰性菌としている一方、柴三郎は香港ではその特定を先送りし、3年後(明治30年1月)にグラム陽性菌と発表したことだ。 *北里は「Lancet」、エルザンは「Animals Institute Pasture」に発表

東大教授の緒方(その脚気菌説に柴三郎が異論)や青山(香港に同行し罹患)はグラム陰性菌説をとり斯界は混乱していた。果たして柴三郎が語ったのは、「ペスト患者が敗血症を起こしていない間はエルザンのグラム陰性菌が居り、暫く経って敗血症を起こすとグラム陽性菌が居る」という趣旨のこと。

柴三郎は神戸での研究を踏まえ、香港では「支那人のことでありますから隠蔽に隠蔽をして居るのを捕らえて来るので、死に際の敗血症を起こしかけて居る者が多かった」とし、「今日は第一に腺を冒す腺腫ペストはエルザンの云う所の原因が正しいものと躊躇せずに同意を表す」と自説を取り下げた。

今日では、香港で二人が見つけて独コッホ研と仏パスツール研に各々保存されていた菌や論文の再調査などによって、二つの菌は同じグラム陰性菌であり、明治30年に柴三郎が使った菌のコンタミが示唆*されている。つまりは二人同時にペスト菌を発見したということで、柴三郎の業績は揺らがない。*竹田美文(モダンメディア60巻4号2014)

北里研究所の設立

1914(大正3)年11月に柴三郎が私財を投じてまで北里研究所を設立した発端は、偏に伝染病研究所の所管官庁が内務省から文部省に変わったことにある。第2次大隈内閣はこの年、1892年創立以来、柴三郎が所長を務めて来た伝染病研究所の所管を文部省に移し東京大学医学部に統合することを閣議決定した。

「伝染病研究所」をイメージした近代医科学記念館(Wikipedia)

一木文相は柴三郎を呼びその旨を伝える。が、柴三郎は「官報に勅令を以て御発表になった上改めて御趣旨を承らん」とした。一木が「所管を移す所以を縷々述べる」も、柴三郎は「事今日に運べる以上は紳士の分として自分の意見を開陳するを潔しとしない」と辞した。瞬時に辞職を決意したのだ。

理由は研究方針の「趣を異にする」こと。彼の主張は「大学教授等が個々専門の研究をなしつつあるは全く後進を教育するの余暇を以てする」一方、研究所は「伝染病の病原を検索」し「予防撲滅の方法を講じ」、「治療方法を研究し、直ぐにこれを衛生行政の機関として実地に応用する」ということ。

野に下った柴三郎は、コッホやパスツール等の「研究所の世界に重きを為す所以」がその「事業が教育の府と何ら関係なく、専心一意これに没頭せざるべからざるを教示する」として、「研究機関の独立は時勢の要求」と考えた。斯くして大正4年暮、私財30万円余を投じた北里研究所は成った。

「読本」が挙げる昭和7年まで16年間の同所の業績は、研究事業では、結核の予防と治療法、当時大流行したインフルエンザの原因究明、狂犬病の新予防法梅野法開発、発疹チフスと麻疹の病原菌検索、赤痢の血清検定法など。製造事業では、各種血清、コレラ等のワクチン及び痘苗などを常時供給した。

中浜東一郎との論争①

中浜東一郎(Wikipedia)

ジョン万次郎の子、中浜東一郎が、曲折を経た5歳年長の柴三郎に2年先んじて1881年に東大医学部を卒業し、金沢医学校教授兼病院長だった85年に内務省から柴三郎と共にドイツ派遣を命ぜられたことや、ドイツでの派遣先交代に柴三郎が異を唱えた件は、本稿その①〜②で述べた。

斯様に柴三郎は、卒業に際し同輩が高給で地方の病院長や医学校長に赴く中、さらなる勉学や経験の必要を感じ敢えて内務省に入り、細菌学を学んだドイツでも衛生学の中浜と2年で交代するのでは互いに中途半端として官命に逆らった硬骨漢、とすれば以下の中浜との論争も腑に落ちる。

中浜は明治29(1896)年に衛生新報に載せた「北里医学博士のジフテリアおよびコレラ治療報告を読む」で以下の要点を述べて柴三郎の業績を批判した。

  • ジフテリア治療血清はベーリング一人の発見
  • 純粋培養法で人体に免疫法を施したのはコッホ
  • コレラ免疫法研究の指示者にワッセルマンらの抜けがあるのは不当
  • コレラの死亡統計270名のみを以て数十万の患者に対比するは不当
  • コレラ血清治療の人体応用の異論に答えずに有効とするは不当

柴三郎は逐一反証を挙げて反論、中浜が「北里氏の報告を弁駁するもの実に我が国医学進歩を懐うがため敢えてしたるなり」と述べるのを痛烈に批判した。それには如何なることにも負けず嫌いで剛毅果断な柴三郎の人柄が凝縮されるが、残念ながら紙幅が尽きたので次の冒頭に。

次回その⑤は、この反論、学界指導、日本医師会、慶大医学部や書き洩らしたその他の業績、そして柴三郎の終焉に触れて、連載を締めくくります。