中浜への反論
柴三郎は中浜博士から「北里氏の報告を弁駁するもの実に我が国医学進歩を懐うがため敢えてしたるなり」と衛生新報でその業績批判を受け、これに対する反論文を、その自負心と負けず嫌いな性格が強く滲む以下の峻烈な一説で結んだ。少々長いが全文引用する。
余は博士の論説によりて医学が何程の進歩をなすべきやを推量するに苦しむなり。思うに今日の医学社会は探求の時代なり。いやしくも他人の業績を弁駁せんと欲せば少なくも自らこれに関する多少の実験なくんばあるべからず。身に定見なくして徒に他人の説を盲信しこれを以て又他の実験を傷つけんとするが如き、もしくは単に先鞭者の他人なるやを争い、或いは統計の如何を論ずる如き、いわゆる卓上の議論をなすは斯道を解さざる人に在りては或いは恕すべきも、博士にしてこれをなすはその地位名望のために惜しまざるを得ず。余は孜々*(注*「熱心に」の意)として事業の研究に従事する者、敢えて閑文字**(注**無意味な文章)を弄するの暇なし。博士にして自ら研究の事実に基づきて立論せざる以上は将来決して答弁することなかるべし。博士請諒焉。
慶大医学部
柴三郎は伝染病研究所の東大移管には反対したものの「医学教育についても深く思いを潜め」ており、「高級なる教育機関を増設して、優秀なる医師及び医学者を養成する要ある」ことを主張した。その一環として「慶應義塾の理事者に対し…塾内に医科大学の設置」を機会あるごとに勧めた。
塾出身の実業家が多数の評議員会は、先行候補の理工科に代えての医科設置に難色を示すが、柴三郎を主宰者とすることで理事者案を可決、柴三郎は予算を百万円とする計画を提案した。土地は四谷信濃町の陸軍用地払下げを得たが、取得には予算の9割を要した。
だが、欧州大戦下の好況による寄付金や皇室下賜金などあり、大正8(1919)年4月に本科を開学、翌年秋には附属病院も成った。共に木造だったが、その設備は「当時邦内に比を見ず」と称された。開院式後の宴の万歳三唱の音頭は後藤新平が取った。
柴三郎が慶応義塾医学部にかくも深く関わったのには、医学教育への思いもさることながら「諭吉の遺志を体してその高邁なる識見を顕彰し、以て厚誼に報いん」としたからだった。従い、医学部長としての報酬も一切受け取らなかったという。
学界指導
国際学界を指導する初外遊は、明治37(1904)年のセントルイス万国博覧会に付帯開催された万国学芸会議からの招待での講演。演題は「和牛と結核の関係」と「日本における癩病の研究」。二度目は1909年のノルウェーでの万国癩会議(名誉座長)とハンガリーでの万国医学会。
名誉副会頭としてブダペストで「ペスト流行と蚤に就いて」講じた後、ベルリンにコッホを訪いツベルクリン研究について知見を交換した。船に弱い柴三郎は往路と同様シベリア鉄道を使い、途中イルクーツクで訃報に接した伊藤博文の死地ハルピンでは、下車してその跡を弔った。
明治44(1911)年、満洲に肺ペストがはびこり、逓信相の後藤新平は柴三郎の派遣を桂太郎首相に献策、防疫方法確立済を理由に固辞するも、桂と後藤に「単に防疫の意味のみを以てするにあらず」と示唆されて2月の極寒満洲に赴く。大連、奉天など各地を視察し「防疫上各般の方法を彼我官民に指示」した。
支那官民は元より日本人医師も「肺ペストと腺ペストの区別も知らず、専ら鼠族の駆除を以て肺ペスト予防の対策としている有様」の満洲の後、寺内総督の懇請で寄った朝鮮の「警備司令官明石元二郎*自ら防疫を指揮し、仁川の埠頭に山積みされた石灰まで消毒しつつある」のも柴三郎を苦笑させた。 *後の台湾総督
終息に近づいた同年4月、惨禍に驚愕した清政府は列強10ヵ国の医学者50余名を北京に招きペスト防疫会議を開く。柴三郎は押されて決議書を纏め、各国委員と摂政王に謁見し奉納した。その摂政王とはその10月10日の武昌*蜂起を緒とする辛亥革命で翌年2月に退位した幼い宣統帝溥儀その人。*漢口・漢陽と共に新型コロナ発生の地と目される武漢三鎮の一つ
枚挙に暇ない国内医学界での尽力を挙げれば、柴三郎が発起人の一人となり正副会頭を歴任した日本医学会や上述の慶大医学部内の慶応医学会、そして大正12年の設立時に理事長となった日本結核病学会*などがある。また帝国学士院創設時からの勅撰会員であり、学術研究会議の会員でもあった。*初代会長は新一万円札の渋沢栄一
その他のエピソード
コッホのコレラ菌発見譚は「面白い」。発見したこの菌を「西洋の文章を書いて句読点とするコンマの形に似ているから」として「コンマ菌」と名付けた当時、コッホは病原体三箇条を唱えていた。すなわち①患者の体内に居る、②純培養した菌が動物を感じさせる、③健康人や他の病気の者には居らない。
ところが猿も兎も鼠もコレラ菌に感じない。が、漸くコッホは胃液を中和したモルモットに菌を飲ませて罹患に成功する。中和させたのは胃液の酸がコレラ菌を殺すから。当初の失敗は、乾燥し死んでしまった菌を食わせたり、生きた菌を皮膚に擦り付けたりしていたからだった。
昔ながらのコレラ瘴気説を主張したある学者など、コレラ菌説を否定するあまり、菌が入った水を衆人の前で飲み干したが罹患しなかった。その学者の極度の緊張と興奮により、大量に出た胃酸がコレラ菌を殺したのだ。しかし1892年のハンブルグでの大流行でコレラ菌説は立証される。
ハンブルグではコレラが猖獗したが、エルベ川を挟む対岸のアルトナの患者は極少。調べると自由都市ハンブルグではエルベ川の水を濾過もせず飲む一方、アルトナではエルベ川の水を飲用しなかった。毎年コレラが流行するロシアで罹患した船員が、エルベ川に流した排泄物が原因だった。
次にこれも師であるコッホが菌を発見した結核の話。日本は蔓延国ではないが、今日も毎年18,000人程度の患者が発生する(厚労省)。1944年にワックスマンがカビから創製したストレプトマイシンで「結核治療は化学療法」が確立した。が、いつの間にか耐性ができるしぶとい菌だ(結核予防会)。
柴三郎は1902年の「伝染病について」で、欧米の統計では「全世界で死ぬる所の人の七分の一はみな結核病」としつつ、「ごく初期にはいわゆる滋養療法と申しまして身体の栄養を善くし適当なる所の薬を飲ませ、初期のうちに病気に打ち勝ってしまうようにすれば必ず治療できる」と述べている。
また「病人の痰」に菌が沢山いて「くしゃみの飛沫」にも菌がいるが、実験に依れば「決して三尺以上は飛んで来るものでない」とする。が、出来るなら「看護婦を雇うて看病に任せ健康なる素人は傍に寄らぬ方が良い」、「不人情のようであるが衛生上からは決してそうでない」と述べるところなど、今回の新型コロナを彷彿する。
1915年の「結核療法の進歩」なる演説では、治療法として、菌そのものや産生する毒素を磨り潰して製造する「ワクチン療法」、病原体を動物に注入して免疫した血清を用いる「血清療法」、そして志賀潔らが研究し成功した「化学的療法」について述べている。
結核菌は水に溶ける毒素(旧ツベルクリン)と菌体毒素を発生し両方をワクチン療法に使う。旧ツベルクリンは不調だったが、アルコールで菌を溶かした上澄みをモルモット等に用いると上手く免疫した。これを新ツベルクリンというが、これがきっと現在のBCGによるツベルクリン反応の原型だろう。
終焉
柴三郎は生来極めて壮健で、死の前々日も慶応の歯科で治療していた。昭和6(1931)年6月13日、「起き出でられる時刻が平素に似ず余りに遅いので、ひそかに窺ってみると既にこの世を去って」いた。78歳の大往生、死因は脳溢血とされる。(完)