立憲主義は守らなくてよい ~ 安保法制施行4年に考える

2015年9月、国会前で安保法案に反対したデモ(Wikipedia)

誰も何も困っていない

きょう3月29日(日)で集団的自衛権の限定行使を容認した、いわゆる「安保法制」が施行されて4年になる。安保法制反対派から言わせれば「立憲主義に反する」状態が4年を経過したわけだが、この4年間に「立憲主義に反する」ことが原因で日本社会に何か不利益があっただろうか。筆者は何も思い浮かばない。本当に全く浮かばない。

安保法制反対派からも特には聞こえない。

例えば「立憲主義に反する」として安保法制に反対した旧民主党の左派とも言える立憲民主党の支持率が頭打ちなのも別に「立憲主義に反する」ことが原因ではないだろう。

筆者は立憲主義を守ることが個人の自由と平和に資するというならいくらでも「立憲主義を守れ!」と主張する。しかし、巷の立憲主義者の発言・行動を見ると立憲主義を守ると個人の自由と平和が害される危険性しか感じない。

本当に立憲主義を守る必要性はあるのだろうか。

国家権力を制限して平和になるのか?

立憲主義者は「立憲主義とは国家権力を制限することだ」と主張し安保法制を否定する。彼(女)らの発言を聞くと国家権力を制限すれば論理必然的に個人の自由と平和が確保されるといわんばかりだ。もちろん、ことはそう単純ではない。

個人は単体で自らを守れるとは限らないから国家を必要とする。「国家の役割とは何か?」とはそれ自体、深く重いテーマであるが、そこに「個人を保護する役割」は間違いなく含まれている。

国家には個人(国民)を保護する義務があり、その義務を履行するためにも個人は然るべき権限・資源を国家に付与しなくてはならない。立憲主義の名の下、やみくもに国家権力を制限し国家の個人保護機能が害されるのなら本末転倒である。

立憲主義を守ると個人の自由と平和が害されるなど実におかしな話である。

安保法制反対派が主張する立憲主義論は「個人は立憲主義のために犠牲になるべきだ」と主張しているのに等しい。

立憲民主党YouTube

立憲主義を「最高の価値」とする神経

立憲主義の問題は国家権力への姿勢に限られない。その排他性も問題である。

例えば立憲民主党は結党当初、党綱領において立憲主義を「最高の価値」と規定しようとした。

立憲主義と民主主義は「最高の価値」 立憲民主党が綱領改定案 同一の民進党から「独立」へ(産経新聞 2017年12月4日)

結局、これは見送られたが今でも立憲民主党関係者の各種発言から立憲主義を「最高の価値」と認識する姿勢は窺える。

例えば立憲民主党の枝野代表は立憲主義を「当たり前」とか「当然の前提」と表現する。この枝野代表の立憲主義観については既に記した。

「立憲主義を守る」とどんな社会になるのか?(アゴラ)

立憲民主党関係者は直接的な表現こそ使用していないが、立憲主義を「最高の価値」と認識していると判断しても決して過剰な解釈ではあるまい。

そしてこの前提に立った場合、立憲主義を守る必要性はなくなる。なぜならおよそ「最高の価値」ほど自由社会と相性の悪いものはないからだ。

「最高の価値」は強力な引力、磁場を持ち各種権力を収斂させ「独裁」への道を切り開く危険性がある。

独裁者とは常に「最高の価値」を標榜する。ヒトラーは国家社会主義運動の優越性を、スターリンは共産主義運動の優越性を唱え自らの「独裁」の正当性を唱えた。

「独裁」に反対し自由社会の発展を望む者ならば「最高の価値」に警戒するはずだし、この警戒こそが立憲主義ではないのか。

やや昔の話で「案」の段階とはいえ党綱領に「最高の価値」を規定しようとしたこと自体、立憲民主党が個人の自由と平和に無関心であることを示しているし、管見の限り立憲主義者を自称する者でこの立憲民主党の姿勢・行動を批判する者をみたことがないから日本では立憲主義者とは個人の自由と平和に無関心な者が名乗る立場なのだろう。

立憲主義は守らなくてよい

立憲民主党的立憲主義をこの日本で完全に実施した場合、間違いなく防衛力は弱体化するから常に独裁国家の恫喝、干渉はもちろん物理的侵略の危険に怯えなくてはならないし、立憲主義の絶対性を主張する者の顔も常に窺わなくてはならなくなる。

要するに「立憲主義を守る」と全方位から個人の自由と平和は脅かされ、最終的になくなり、立憲主義が否定しようとした社会になるのである。

今の日本で個人の自由と平和を根底から破壊する危険性があるものは自民党改憲草案ではなくヘイトスピーチでもない。それは立憲主義である。

安保法制施行から4年を経過した今「立憲主義は守らなくて良い」と強く主張して筆をおきたい。