ここ最近、医学の専門家の方々が、社会運動家してきているのが目立つ。社会的使命を感じて行動されているということなのだろうが、非常に特異な状況になってきていると感じる。
時の人と言ってもいい「クラスター対策班」の西浦博・北海道大学教授については、私はしばらく前に、こう書いたことがある。
今、日本において、西浦教授ほど重要な人物は他にいないのではないか。私が政治家なら、即座に巨額の研究資金を西浦教授に預けるために奔走する。(「密閉・密集・密接」の回避は、「日本モデル」の成功を導くか)
私がこう書いたのは、全国の保健所の方々が持っている情報などを集積・分析して進める研究には、相当な労力が必要だ、と思ったからだ。しかし私の期待は外れた。
西浦教授は、もっぱらメディアやSNSを通じた発信や政治家への影響力行使に関心があるようだ。個人ツイッターでの濃厚なやりとりだけでなく、新規に開設した「新型コロナクラスター対策専門家」というアカウントでは、非常事態宣言を通じて人の移動を8割減らそう、という運動系の話が中心になっている。
【なぜ8割の行動制限が必要なのか】
北海道大学 西浦 博より解説します。
行動制限する人(p)の割合を、欧米の例を参考にR0(基本再生産数)と Re (実効再生産数)から導き出すと6割です。
なぜ8割としたかを解説しています。#新型コロナクラスター対策ゼミ pic.twitter.com/I6uRw4u6ri
— 新型コロナクラスター対策専門家 (@ClusterJapan) April 7, 2020
安倍首相は、4月7日の非常事態宣言会見の際に、次のように述べた。
東京都では感染者の累計が1,000人を超えました。足元では5日で2倍になるペースで感染者が増加を続けており、このペースで感染拡大が続けば、2週間後には1万人、1か月後には8万人を超えることとなります。しかし、専門家の試算では、私たち全員が努力を重ね、人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができます。
これは西浦教授の理論を信じて安倍首相が非常事態宣言を発令したことを意味している。「西浦理論」と言えるのは、これが4月3日の日本経済新聞に出た西谷教授のモデルの話だからである。
日本経済新聞に掲載されたグラフは、西浦教授が提供したもので、架空の条件にもとづいた抽象的な試算モデルだ。東京の未来を試算したグラフではない。それを日本経済新聞があえて東京の未来の予言としてしか読めないような記事に入れこんだ。ただし、この記事が西浦教授の意図で掲載されたものであったことは、「新型コロナクラスター対策専門家」ツイッターで西浦教授がこのグラフの解説を行ったことによって明らかになった。
日本経済新聞の記事の問題性については、私も一度書いたことがあるし(「日本モデル」にそった緊急事態宣言をせよ)、池田信夫氏も複数回にわたって書いている。(東京都に「緊急事態宣言」は必要か:安倍首相は「緊急事態ギャンブル」に勝てるのか)
一言で言えば、東京の今後について書かれた記事に掲載されたグラフは、東京の今後についてのグラフではなかった、ということである。
早く緊急事態宣言を出させる圧力が正義だという風潮の中で、とにかく地獄のシナリオと克服のシナリオを国民や首相に見せることが正義だという思惑があったかのように感じざるを得ない、不思議な記事だった。
自民党の二階幹事長が「8割削減なんてできるわけない」と発言したことがニュースになった。これは西浦教授⇒安倍首相のルートで首相会見に入ってしまった内容について、自民党が不満を感じていることを示唆しているように見える。
“人との接触7~8割削減” 二階氏「できるわけない」(TBS NEWS)
確かに、そもそも首相会見の冒頭の「医療崩壊を防ぐために緊急事態宣言をする」という説明だけなら、「人と人との接触機会を8割削減」は不要だった。人工呼吸器の数と、「人と人との接触機会を8割削減」は、論理的に結びついていない。
しかしいずれにせよ、「8割削減」は、西浦教授のルートが首相に結びついて挿入されたものに見える。だから、当然、自民党は不満だろう。
西浦教授は、自らを「専門家」と呼んでいるが、今や完全に永田町の重要政治アクターになっている。
大きな政治論点になっている、西浦/日経/安倍理論の中身について整理しよう。
① 東京では、感染者数が千人を超えた4月5日の2週間後の4月19日に感染者数が1万人になる。非常事態宣言の効果は2週間現れないので、この予測は絶対である。<計算上、4月10日金曜に少なくとも2千人を超え、4月15日水曜には少なくとも4千人を超えて、4月19日までに1万人を超える。一か月後に8万人になるかどうかは緊急事態宣言後の情勢次第だが、東京において4月10日2千人、4月15日4千人、4月19日1万人は、絶対である。1億2千万人に影響を与えた問題である。恐らく西浦教授が学者生命を賭けて絶対視している予測だろう。>
② 非常事態宣言の「10日後~2週間後」、感染者数は、劇的に減少し始める。つまり4月18日~22日頃、累積感染者数は6分の1程度になる。
③ そこから20日経過した5月8日~5月12日頃には、コロナ危機はほぼ収束する。
上記のうち、①は絶対に発生する事柄である。②・③には条件がある。「人と人との接触を8割削減する」ことである。
もっとも日本人同士の接触が1カ月ほど「8割削減」されると、日本列島においてコロナウイルスが撲滅される、ということが、本当に科学的に証明されているのかどうか、私は知らない。西浦教授がそれを学術的に証明する論文を書いたのかどうかも、私は知らない。
むしろ欧米諸国の様子を見ると、交通利用者を8割減らすと「10日後~2週間後」に劇的に減少が始まる、などということは言える実例は皆無であるように見える。
佐藤彰洋・横浜市立大教授(データサイエンス)は、「東京都の場合、公共交通機関の乗車時間と面会する人数を各個人が98%減らす必要」があるという記事を毎日新聞に出した。
しかしいずれにせよ、この「8割削減」を目標にして、1カ月の緊急事態宣言が運用されることが明言された。1億2千万人の日本国民に、この「西浦理論」だけにもとづく課題が与えられた。
私は「医療崩壊を防ぐ」という目標は、社会的意義と内容が明確で、良い目標だと考えている。しかし「8割減少」は、架空の条件下の抽象モデルの話を、具体的な日本の現実に強引に当てはめようとするだけの考え方で、果たして現実的な意味があるのか定かではないと思っている。
私はむしろ、「8割削減」というのは、架空のモデルに即した極度に抽象化された目標なのではないか、と疑っている。真面目に現実にあてはめようとしても、測定不可能な政治スローガンとしてしか働かないのではないか、と疑っている。
ある人は渋谷の街の歩行者の数を見て「8割」を測定しようとするし、別の人は自分が一日に会った人の数で測定するし、また別の人は他人と話した時間の長さで測定するかもしれない。そもそも「三密の回避」を重視する立場からすれば、「人と人との接触」の感染リスクは、接触の様態によって大きく変わる。「8割削減」を機械的な数値で一律測定するなどという「質」を無視した考え方と、「三密の回避」には、根本的な矛盾すらある。
仮に実現不可能であるだけでなく測定不可能なスローガンであるとしても、「まあ後で1人でも感染者が減れば、それでいいじゃないか、国民はなるべく焦らせるべきだ」、という意見もあるのかもしれない。
しかし、非常事態宣言によって経済は停滞し、財政赤字は膨張し、失業者が増大し、数多くの人々が経済的苦境を経験する。政治家なら、「まあ、1人でも感染者が減ればそれでいいじゃないか」という態度はとれない。巨大な「責任」を背負うのだ。政治家に影響を与えた「専門家」も、当然、「責任」を負うと考えるべきだろう。
われわれ社会科学者は、通常、自分の発言には社会的責任がある、と考える。明言したことが事実と異なれば、社会的責任を負う。あるいは、わからないことをわからないと言い、推測であれば推測でしかないことがわかるように言う責任を負っている、と考える。
「専門家」の予測にも当然責任がある。まして自ら積極的にマスコミ・SNS・政治家に働きかけたというような経緯があったのならば、なおさらだ。
このことは、事態の推移を見守りながら、今後時間をかけてしっかりと検証していく必要がある事柄だと考える。