ブルボン家はフランス・スペイン王を男系男子継承

※クリックするとAmazonページへ

日本人のための英仏独三国志 ―世界史の「複雑怪奇なり」が氷解! 』(さくら舎・5月21日発売)の内容のうち、イギリス王室については、「英王室ルーツはフランス人?ドイツ人?ギリシア人?」、ドイツについては、「神聖ローマ皇帝の歴史からドイツを理解する」でさわりを紹介したが、今回は残るフランスについて紹介する。

フランス革命で打倒されたのは、ブルボン家である。ただし、これは987年にフランス王国を建てて王となったユーグ・カペーに始まるカペー家の分家である。また、現在のフランス王位請求者(プレタンダン)は、その分家のオルレアン家である。

そして、現在の王位請求者は、昨年、アンリ7世を引き継いだジャン4世だが、彼はユーグ・カペーの男系男子、しかもすべて正室の子に世って継承された嫡系の子孫である。

また、現在のスペイン王フェリペ6世も、ルイ14世の男系男子嫡系の子孫であり、ルクセンブルクのアンリ大公も同様であるし、イギリス王家にも濃厚にその血は伝えられている。

ドイツのはじまりは、東フランク王国のカロリング家が911年にほろびて、コンラート1世が王になったとき、あるいは、962年にオットー1世が神聖ローマ帝国皇帝になったときとドイツ人は意識している。

しかし、フランス人は王統譜を語るときに、496年にフランク族の王クローヴィスがランスで聖レミによって戴冠された時をもって始める。パリを首都とした王でもある。

クロヴィス1世(Wikipedia)

そして、そのメロヴィング朝が300年続いたあと、今度はカロリング家のピピンが751年に王となった。そして、その子のシャルルマーニュ(カール)は、800年にローマ教皇からローマ皇帝として認められた。

シャルルマーニュ(Wikipedia)

その宮廷があったのは、ドイツ西部(ケルンの西)でベルギーやオランダ国境に近いアーヘンという町だが、フランス人はこれをエクス・ラ・シャペルと呼ぶ。地理的にも文化的にもゲルマンとラテンの境界線上の町だ。

ただ、ゲルマン人には分割相続の習慣があったので、メロヴィング朝もカロリング朝も分裂と統合を繰り返した。しかし、シャルルマーニュの孫の代になって、皇帝ロタールがイタリアと仏独中間地帯の中フランクを領し、ルードヴィッヒが東フランクを、シャルルが西フランクを領し、その後、中フランクはまた分裂を繰り返すことになるが、東フランクと西フランクは、だいたい安定して存続した。

ただ、カロリング家の男系はやがて途絶え、先に紹介したように、東フランクはドイツとなり、西フランクはフランスになった。

西フランクでは、ユーグ・カペーからなんと13代目のジャン1世(1328年死去)までは、親子による相続が3世紀以上も続いたのである。

この奇跡が途切れたのは、名君フィリップ4世の3人の王子たちの妃が繰り広げた大セックス・スキャンダルがゆえだ。テニスに夢中だった兄弟たちへの愛想が尽きた妃たちが恋のアヴァンチュールに走ったのである。

それに気付いたのは里帰りしてきたイングランド王妃のイザベルだった。ところが、当時は不倫は離婚の理由にならなかった。そこで、3人の王子たちを継ぐべき男子は、先に紹介したジャン1世だけ担ってしまい、結果的にフィリップ4世の甥に当たるヴァロワ家のフィリップ6世が即位した(1328年)。これに対して、イザベルの子であるイングランド王エドワード3世がフランス王位を狙って始まったのが英仏百年戦争だ。

百年戦争で活躍したジャンヌ・ダルク(Wikipedia)

そして、イングランド側が有利だったのだが、このとき、史上最大の感染病禍である14世紀のペスト流行が起きて、王位争いどころでなくなってしまった。それで小康状態になったのだが、今度は、フィリップ6世の曾孫であるシャルル6世の跡目を巡って、息子のシャルル7世と娘でイングランド王妃キャサリンの子であるヘンリー6世の間で王位が争われた。王妃であるイザボーの素行が悪く、本当にシャルル6世の子か疑わしかったのも原因だった。

しかし、ここでジャンヌダルクが現れ、ユーグ・カペーの男系男子の子孫であるシャルル7世しか王位は継げないとプロパガンダをし、イギリス軍を追い払って王統は守られたのである。

このキャサリンは、夫であるヘンリー五世の死後に秘書と再婚し、彼らの子のエドモンド・テューダーがエリザベス女王らのテューダー朝の先祖である。

一方、ヴァロワ朝は直系で続くというわけにはいかなかったが、1589年に死んだアンリ3世まで9世代13人が続いた。しかし、ユグノー戦争のなかで断絶し、アンリ3世の姉の夫だが、男系では1270年に死去したカペー家のルイ9世の子孫であるブルボン家のナヴァール王アンリ4世が即位した。ルイ9世から10世代降った遠い子孫で、しかも、プロテスタントだったが男系にこだわったのだ。ただし、女系ではアンリ3世の祖父であるフランソワ1世の姉の娘を母としていた。

ルイ16世(Wikipedia)

そしてブルボン朝は、アンリ4世の孫であるルイ14世のとき全盛を迎えたが、ルイ16世のとき革命で倒れた。その後、王政復古したが、シャルル10世のときに七月革命で倒され、ルイ14世の弟の子孫であるオルレアン家のルイ・フィリップが「フランス人の王」となった。

しかし、これも二月革命で倒され、第二共和制、ついで第二帝政の時代となった。そして、普仏戦争でナポレオン三世が退位したのち、再び王政復古かとみられたが、ブルボン家とオルレアン家で争ったりしているうちに立ち消えになってしまった。

そしてブルボン家は、シャンボール伯アンリを最後に断絶し、オルレアン家が晴れてブルボン家を引き継ぐことになり、現在ではジャン4世が家長となっている。

ジャン4世(Wikipedia)

一方、ルイ14世の孫がスペイン王位を継ぎ(ルイ14世の母親と王妃がスペイン王女だったため)、フェリペ5世となった。ただし、このときに、フランス王位請求権は放棄したので、ルイ14世の唯一の男系男子の系統であるにもかかわらず、フランス王にはなれないことになっている。

このスペインのブルボン家は一時期、女王になって、その正統性を巡って内紛が起きたが、のちに、女系は絶えて、男系に戻り、現在はルイ14世から11世代下ったフェリペ6世が王になっている。

一方、ルクセンブルクでは、オランダ王家の分家が大公だが、ギヨーム4世のあと娘のシャルロットが継ぎ、スペイン王家分家のパルマ・ブルボン家のフェリックスと結婚。この二人の孫が現在のアンリ大公だ。

このアンリ大公は、女系であるが、中世にあってプラハの恩人としても知られるカール4世などを出した(本来のこの地の領主だった)ルクセンブルク家のDNAの継承者なので、君主としてうってつけと言うことになる。

日本人のための英仏独三国志 ―世界史の「複雑怪奇なり」が氷解!』では、こうした話を延々と根気よく書き綴っている。ややこしい話なのだが、ここを理解しないとヨーロッパ史は何のことやら分からないのである。