“苦しゅうない”の安倍バカ殿イズムに猛省を勧告する

秋月 涼佑

「政治家の力のなさを痛感する」

たけし「政治家の力のなさを痛感する」 日本政府のコロナ対応を嘆く(サンケイスポーツ)

さすが”たけし”だ。最も短い言葉で国難に直面しての国民大多数の嘆きを表現してくれた。

前回記事で私も指摘させていただいたが、

専門家の後講釈という不実。“死の行軍”続行諮問の面の皮

「専門家会議」という国を代表する科学者や医者の集団が、なぜか数字的根拠や科学的根拠も示さず、必要性に対する説明も十分でないままに、日本焦土化作戦と呼ぶ他ないような緊急事態宣言の延長の暴挙を諮問した。

さすがに、今回ばかりはテレビ、ネット各メディアで疑問を呈する声も多い。

営業休止で経営危機の事業者が続出(HAMANO/flickr)

なぜベスト&ブライテスト揃いの「専門家会議」の迷走気味なのか、現在進行形かつ喫緊の事態だけに引き続き注視していく必要があるだろう。

だがそもそも「専門家」は所詮「専門家」である。逆に言えば「専門外のことには無責任を自認する人々」であり。誰かが自殺しようが、お店がつぶれようが、そこは自分たちの領域ではないと内心線引きをしてしまっている。

まして、医者が患者に大事をとってくれというのはある意味当たり前の話でもある。

一度ブレてからの安倍政権はだらしない

もちろん当然、危機対応に対する全面的な責任所在は、選良たる政治家にある。

世界的災厄とも国難とも呼べる事態においては、特にトップリーダーの全人格的な能力が試される。

私は、普段なんでも反対の野党的スタンスはとっていない。歴代最長となった安倍政権には、長く支持されるそれなりの理由があると考えてきた。

安倍首相の「適温感」を、出身校の成蹊学園から考える

今回のコロナ危機にあたっても、インフォデミック(情報爆発)気味に過熱化する世論に対して、効果が定かでない割には強烈な副作用を伴う緊急事態宣言に当初慎重だった安倍政権を頼もしくも思い、期待もしてきた。

我々の歯痒さの正体。政治家よ危機にこそ理念を語れ

だが、一度世論に押し切られてブレてしまって以降の安倍政権は本当に、だらしがない。

第三次世界大戦に専門家など存在しない

専門家会議の尾身副座長と記者会見する安倍首相(官邸HP)

何より、何かというと「専門家会議の諮問により」「専門家の皆さんの賛同を得て」などという言い訳じみた言葉がいただけない。要は、安倍首相はこの事態をウイルス流行対策という視点でしか見られていないということだ。だから、ウイルスや疾病の専門家が一番の最適解を持っていると、自分自身が最初に思い込んでしまっている。

これではまるで御用学者になんでも”苦しゅうない”のバカ殿様である。

司馬遼太郎は現代のサラリーマン原型を江戸時代にそれまでの戦闘技術者から俸禄生活者にされてしまったサムライだと言ったが、よもや安倍氏は現代日本の総理大臣の原型を江戸時代、なんでも”苦しゅうない”のお殿様に定めているのだろうか。確かに日本には高位の人を神棚に祭り上げるような文化もなくはないが、国難にあたってバカ殿様は許されない。

今回の事態、発端は新型ウイルス流行だが、もちろん今やそれは、国家経済の問題であり、国家安全保障、教育、年金等日本の福祉厚生未来の問題そのものである。死者数対策ひとつとっても、国家宰相が考えるべきは、現在のウイルス流行状況からの今後コロナウイルスによる死亡者の見込みと、緊急事態宣言延長の経済的ダメージによる自殺者や国力低下や財政負担の増大による中長期的医療サービスの低下による死者、そして国力低下による安全保障上のリスクと想定される死者数の比較衡平である。

(文明の安全保障について私の個人サイト「たんさんタワー」で考察しています。よろしければ、あわせてお読みください。「衝撃の書 ホモデウスを読む」 )

まさに安倍首相は状況を「第三次世界大戦」と例えたが、であれば大戦を指揮するのはウイルス学者ではない。このような状況に専門家や権威は存在せず、正当性のある方法で選ばれた国家のリーダーが全人格的な判断をしていく他ない。

もちろん、必要があれば感染状況についてセカンドオピニオンを求めてもよいだろうし、多く指摘されているように経済面や教育面での諮問会議を立ち上げても良いだろう。

だがこんな当たり前の仕切りさえを、「感染症対策専門家会議」尾身副座長に言わせてしまうあたり、まさに天を仰ぎたくなうような状況と言うほかない。

経済面からの会議体設置を 専門家会議・尾身副座長が要請(Sankei-biz)

“これを尾身さんに言わせるあたり、安倍官邸のマネジメント、ヤバすぎ…”(新田アゴラ編集長Twitter)

田中角栄だったらどうだっただろう?

田中角栄(官邸サイトより)

ついつい宰相が田中角栄だったらどうだろう。と考えてしまう。危機にあたっての頼もしさや弱者に対する想像力は、安倍首相の比ではなかっただろう。まして御用学者の話を鵜呑みにすることなど絶対になかったはずだ。角栄氏はずば抜けた記憶力や、勘も含めた思考力で、しばしば高級官僚に鋭い質問や差戻しを命じるなどして役人の誤魔化しを許さなかったという。

これがもし三国志時代の戦場なら、見せしめのためにでも将軍は当てを外した占い師の首を跳ね飛ばして士気をあげようとしたかもしれないほどの場面だ。

平時はその適温感で良かった安倍首相だが、危機にあたってはまったく無力であった。

自分の頭で考えられないのではないか?

まず何より残念なのは「知力」が足りないことだ。要は自分の頭でウイルス流行の実態に対する仮説を組み立てられない。大阪府・吉村知事と安倍首相の言葉を比べれば、状況を自分の思考にまで落とし込めているかどうか一目瞭然である。

日々判明する数値、海外の数値や情報から日本の流行状況の実相や将来に対する見通しを立てることは何も感染学者だけに許される行為ではない。なんだったら家族を守る市井の家長だってテレビや政府、有識者会議の情報に耳を傾けつつ、自分の目と頭を信じて日々情報分析・判断をしている。家族がやられたあとで政府やメディアがこう言ったと、嘆いてみても始まらない。

もちろん断っておくが、先ほど田中角栄の例でも明らかなように、トップリーダーの「知力」に学歴は必要条件でも十分条件でもありはしない。

でも結局群れが守り抜くのは「知力」を超えた「野性」のリーダーシップ

そして決定的に「野性」が足りない。要はなりふり構わず群れを守り抜き生き抜くリーダーシップが足りない。

先の会見での「絆」とか生温かい言葉使いや悪評プンプンだったユーチューブコラボなどに端的に表れているが、平常時には適温感だったある種の生ぬるさが、危機においては圧倒的な頼りなさとなって露呈している。

新型ウイルス流行は、あらためて我々も所詮は自然環境の一部に生きていることを思い知らせてくれた。

自然現象は本質的に「野性」的なものである。

「世界は「自然」であって、それは最終的に「野性」となることを避けられない。
それは「野性」は自然の過程であり、その真髄として、常に移り変わることで秩序立っているから」

ゲイリー・スナイダーの『野性の実践(Practice of the Wild)』

参照:自然(Nature)と野性(Wild)の定義を再確認する。野性を取り戻すということ。

群れのリーダーは集団の一頭たりとも死なせない気概が必要だろうが、ひとたび群れが脅威に襲われれば何頭か殺られたことにナイーブになっている暇はない、全員をある方向に走らせるかどこかに身をひそめるか、予測が難しい自然現象やその他すべての状況を総合判断して、果断な決断が必要だ。もちろん走っていった先が崖では話にならない。

私には、今回緊急事態宣言延長の判断は、最初の外敵からの激しい攻撃に驚きパニックに陥った群れを安倍首相が説得制御できなくなり、あげく日本国民を経済崩壊というもっと悲惨で被害が多い断崖絶壁に導いている状況ではないかと危惧している。

第一次安倍政権ではそのナイーブさで政権を放り投げた安倍首相だが、雌伏の期間を経ての第二次安倍政権は評価できるものだった。日本の正念場である今、再度”君子豹変”する姿を見せて欲しいと願うものである。