「全てはアブラハムから始まった」といえば、アブラハムはひょっとしたら気分を害するかもしれない。「砂漠の宗教」と呼ばれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大唯一神教はいずれもアブラハムから派生した宗教だ。アブラハムは3大宗教の「信仰の祖」として崇められてきた。しかし、3大宗教はその後、「私の神」がファーストと主張し、他の宗教を異神と蔑視し、時には武器を持って戦ってきた。そのいがみ合いの歴史は21世紀に入っても続いている。アブラハムが目を覚ませば、「何が起きたのか」と驚くかもしれない。
アブラハムから派生した3大宗教のいがみ合いの歴史に新たな汚点を加える出来事が生じた。トルコ最大の国際都市、イスタンブールで博物館として使用されてきたアヤソフィアが再びイスラム教礼拝所(モスク)として利用されることになり、今月24日に初のイスラム教の礼拝が行われるという。
アヤソフィアの歴史は長く、波乱万丈だ。東ローマ帝国(ビザンティン帝国)のユスティニアヌス帝が西暦537年、東方正教会の建物として建設したが、オスマントルコが1453年、当時コンスタンティノープルと呼ばれていたイスタンブールを占領すると、アヤソフィアをモスクに改修し、4つの尖塔を建設した。1934年、ムスタファ・ケマル・アタテュルク初代大統領(1881~1938年)はスルタン制を廃止、共和国を樹立すると、イスラム教の世俗化を促進し、アヤソフィアをモスクから博物館とした。ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に指定され、世界から観光客を集めるトルコ最大の観光地となって今日まできた。それが、7月10日、トルコ最高行政裁判所が博物館を廃止し、イスラム教礼拝所に戻すと決定したのだ。
そのニュースが流れると、イスラム教徒から歓喜の声が聞かれる一方、キリスト教会からは「アヤソフィアは超教派運動のシンボルだった」と嘆く声が聞かれる。メディアはイスラム根本主義傾向の強いエルドアン大統領がトルコのイスラム化をさらに一歩前進させたと報じ、「アヤソフィアはキリスト教とイスラム教間の架け橋であり、共存のシンボルだった」(BBC7月11日)として、トルコ側の今回の決定を批判的に発信した。
世界最大のキリスト教会、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は12日、「アヤソフィアのことを考えると心が痛い」と述べ、トルコからのニュースに愕然としている。バチカン・ニュースは同日、「アヤソフィアのモスク化に関する世界の反応」を特集して掲載するなど、バチカンにとっても大きなショックだったことが伺える。
イスラム教の聖典にはキリスト教の登場人物は呼称が異なることもあるが出てくる。イエスもマリアもイスラム教徒にとってポピュラーな人物だ。その意味で、ユダヤ教を含む、キリスト教、イスラム教の3大宗教は文字通り、アブラハムをそのルーツとした宗教だ。
トルコ当局は、「アヤソフィアのドームにある聖母マリアのモザイク画を含むキリスト教の装飾はモスク化された後も撤去しない」と発表している。世界のキリスト教会からの反発を配慮したともいえるが、聖母マリアはイスラム教徒にとってもイエスの母親として尊敬されているからだ。
ところで、アヤソフィアのモスク化は宗派間の対話のハードルとなるだろうか。フランシスコ教皇は3大宗派の代表をバチカンに招き、宗派の壁を越え、統一実現のために祈りを捧げてきた。トルコ側の今回の決定は宗派間の統合運動(エキュメニズム)にはマイナスかもしれない。
ただし、宗派間の統合を妨げている最大の障害は「われわれの信仰こそ正統であり、神の真理を独占している」といった信仰姿勢だ。そして問題は、その信仰姿勢が本来、間違っておらず、正統であることだ。「自分の神は貴方の神より劣っている」と考えて、信仰する者はいない。信仰は常に、「自分こそ真理を有している」と考えることから始まる。他宗派の信者と対話は可能だが、歩み寄ることは基本的にはできない。現代風に言えば、信仰は常に「私の神こそファースト」という信念に基づいているからだ。
ローマ教皇庁「キリスト教一致推進評議会」議長のクルト・コッホ枢機卿は、「宗派間の対話、一致運動(エキュメニズム)には2つの徳が必要だ、一つは統合への情熱だ。もう一つは忍耐だ」と述べている。バチカン・ニュースが15日、報じた。
確かに、教派間、宗派間の統合への情熱は大切だ。多くの宗教指導者は過去、情熱を燃やして他宗派や教派に声をかけ、対話の努力をしてきた。情熱は不足していなかった。忍耐も同様だ。これまでのキリスト教の統合運動でも長い年月が過ぎたが、依然、統合の目標からは程遠い。同枢機卿は、「早急な解決策ではなく、実行可能な解決策が大切だ」という。
それでは宗派間、教派間の統合は不可能だろうか。唯一、実行可能な道は、全ての宗派、教派がその組織、機関を解体し、各信者が家庭で神との対話、祈りを捧げればいいのだ。宗派だといってセクト主義に陥ることはなくなる。各自が教会やモスクを通じなくても神との対話を実践すれば、「私の神」と「貴方の神」の壁はより低くなるのではないか。神は教会や組織、神学や教義の世界に限定された存在ではないはずだ。神を組織や機構から解放すべきだ。
アヤソフィアのモスク化は余りにも政治的に受け取られている感じがする。神にとって本来、どうでもいいテーマではないか。神は教会建物やイスラム教礼拝所の管理人ではなく、各自の心の世界に住み、その鼓動に常に耳を傾けている存在ではないだろうか。アブラハムだけではない。神も誤解されているのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年7月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。