日本で最も有名な自己啓発書「夢をかなえるゾウ」の著者、水野敬也さんとお会いした時に、高校の頃から友達だったような奇妙な感覚に捉われた。男子校出身でコンプレックスにまみれていて、そのコンプレックスを克服しようと、周囲から見ると過剰なほどのチャレンジと内省を積み重ねた人。
まるで自分だった。
自分が苦しんで辿った思考の道を、悩みを抱えながら歩いた旅を、彼もまた歩んでいるかと思うと、何時間話しても話尽くすことができず、痛飲した。
その水野敬也さんが出した「夢をかなえるゾウ」シリーズの最新刊を読んで、僕は涙した。
その理由を、自分語りを含めて話していきたい。多少照れ臭いが、自己啓発本を、自己と向き合い、自己を語らずして紹介できると思わないからだ。
(以下の文章はネタバレ要素を含むため、できるだけ本書をお読みの後にご覧ください。ちなみにそれぞれのシリーズは独立的なので、4から読んでも良いと思います)
「夢をかなえるゾウ」なのに「夢を手放す」という逆説
本シリーズではこれまで「どうやったら夢が叶うか」を物語仕立てで指南してきた。成功したい、結婚したい、お金持ちになりたい、そんな夢に向かって勇気を出して一歩を歩める本だった。
しかし本書は、「夢を持って頑張る」の向こう、「夢を手放す」を描いた、およそ自己啓発らしからぬ本になっている。いや違う。「夢を手放す」ことを描いたからこそ、「本当の自己啓発」になっている。
どういうことか。
夢を叶えることを良しとすることは、すなわち叶っていない状況を「悪い」とする。その心理的な居心地の悪さを利用して、がんばるエネルギーを調達するわけだけども、それは強烈な「今」の否定となる。その否定ゆえに、人々は苦しむ。
今、モテない自分。今、お金持ちじゃない自分。今、成功者じゃない自分。
夢さえ叶えば幸福になれる、と強く思えば思うほど、今の否定によって自らを不幸にするメカニズム。この階段、登り続けないといけないんだっけ?と。
いいえ、階段がキツくなったら、降りたって良いんだよ。そしてまた登りたくなったら登っていい。違う階段に登っても良い。そもそも幸福は階段の向こうにあるのではなく、階段を登っている、その一段一段の中にあるんだよ。
そんなことを、あろうことか本書は語ってしまう。
夢をかなえるゾウだけど、かなえてもかなえられなくても、実は幸福にはなれる、という「夢をかなえる」ということ自体への否定を通り抜けた先にある、救い。
キャッチーな自己啓発書のパッケージはブラフ(だまし)で、中身は哲学であり宗教であり、人間賛歌なのであった。
夢の開放性がもたらず継承可能性
さらに「夢をかなえる」ことに拘泥することの無意味さに言及した後に、他方で「夢は世代を超えて叶う」という、開かれた可能性にも触れていて、それが本書を卓越したものとならしめている。
どういうことか。
ウォルト・ディズニーは夢だったディズニー・ワールドを実現する前にこの世を去っていた。相対性理論を発見したアインシュタインは宇宙の統一理論を完成させようとしたが間に合わなかった。エジソンが遺したノートには「今後発明する予定の大量のリスト」が載っていた。
偉人たちもまた、夢を叶えられなかった、と言える。
けれど、偉人たちの見た夢を、後の世代の人々が共に見て、そして実現に向けて努力が重ねられていく、ということはある。ディズニー・ワールドは完成し、GEはエジソンの見た夢を見続け、統一理論は今も物理学者が追い続けている。
夢は自分一人で叶えなくても良い。まだ見ぬ子どもたち、そしてその子ども達と叶えれば良いと思ったなら、それはなんて自由で開かれたものなんだろうか。
焦りと失望の日々を超えて
僕はずっと焦っていた。
もう16年も日本の親子の課題を解決する社会事業に携っているのに、一向に社会課題は減らない。子どもは2週間に1人、虐待で死に続け、ひとり親の半分は貧しいまま。DVで3日に1人、妻が殺され、先進国で最も教育に国家予算がかけられていない。バカげた状況は変わらず、自分は年を取り続けるだけ。
有識者会議の委員だの、なんとか賞だの、社会的な勲章だけはたくさん首からじゃらじゃらかかっているし、日常生活の中で買えないものが無くて困ることはない。でもそれが一体なんだってんだ。
若い頃は、お金もなく、モテなく、立ち上げたばかりの事業と組織の質も酷いもんだった。でも希望があった。きっと10年後、自分はこの問題を解決できているはずだ。世の中はもっともっと良くなっているはずだ、と。
しかし、今はそうではない。ひたすら自分の無力さと、そして自分の掌からこぼれ落ちていく、人生の残り時間。一体どうすれば、意義のある結果を残せるんだ。バカげた社会のありようを、ひっくり返せるんだ。ひょっとしたら自分は人生を間違ってしまったのではなかろうか。
そんな風に焦っては、誰かに分かってほしいと強烈に願いつつ、誰かに分かられてたまるかと片方で思う、という引き裂かれた自我の中で30代を終えてしまった。
思い描いていた40歳と違う。
もっと自信に溢れ、満たされ、幸福な40歳にきっとなっている、と根拠なく思っていた自分は、自分への失望とともに生きていた。
けれど、自分は壮大な思い違いをしていたのでは、と本書を読み終わった後に思ったのだ。
自分の「虐待死を無くしたい」とか「世界で最も子どもと親が幸せな国を創りたい」っていう夢は、何も僕が、僕の人生の中だけで叶えなくても良いのでは、と。僕の子どもの代で叶えても、孫の代で叶っても良い。そんな風に「開かれた」存在として捉え直したらどうなんだ。
そりゃあ早いに越したことはないけど、焦って自らの「今」を否定し続けても、不幸になるだけで。自分が不幸になるだけだったらまだしも、自分の周りにいる仲間たちも不幸にしちゃうのはすごく嫌だ。
仲間、と書いた。
思えば、素晴らしい仲間たちと出会えた。金になるわけでも、有名になるわけでもないのに、共に夢を追って毎日汗をかいて涙を共に流してくれる仲間たち。彼らと会えただけでも、本当に幸せな人生だった。
自分の大きな夢は、多分僕が生きている間は、叶わないだろう。
でも、別にそれで良い。
代わりに、小さな夢達は、それはやりたい事業を思いついて、立ち上げて、「ありがとう」と言ってもらえて、仲間と喜んで、そういう小さな成功と幸福を積み重ねることはできる。
小さな成功と幸福を積み上げて、レンガを積み重ね続けて、死ぬ寸前までレンガを積んでいこう。
あとは後の世代の誰かが、その上に新しいレンガを積み重ねていって、また次の世代が新たなレンガを重ね、いつか聖堂が完成するんだと思う。
そう、いつの間にか僕は本書に救われていた。
偏狭な夢を手放し、「今」を抱きしめ、夢を開かれたものと捉え、未来に繋ごうと。
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長い恥ずかしい自分語りを聞かせてしまって申し訳ない。でも、この記事があなたと本書を結びつけるきっかけとなって、あなたがあなたの「今」を慈しみ、バトンのような夢を次世代に繋ぐことに一歩踏み出せたなら。そんな光景を、僕は願ってやまない。
「夢をかなえるゾウ4 ガネーシャと死神」