尊厳死は自分自身に問いかけて議論するのが望ましい

中田 智之

逮捕された大久保愉一(左、クリニックHP)、山本直樹両容疑者(ツイッターより)

ALS患者の殺人の疑いで医師2名が逮捕されてから、にわかに尊厳死に関する議論を求める声、同時に議論そのものを差別的だとする批判も大きくあります。

この批判に関して私は、尊厳死に関する議論は自分自身の人生を問いかけるものであり、「自分事」であるので差別には当たらないし、いま闘病していたり死の床に就いている方々の命を脅かすものではないと考えています。

一方で今回の事件にあったような積極的安楽死については厳に慎重にすべきだと考えていますし、金銭の介在には強い違和感を感じます。

1. 健康に気遣っても死ぬときは苦しい

今回はALS患者に関する事件だったので注目が集まっていますが、これは10万人中2.5人の難病で、約1万人の有病者がいると言われています。

ALS患者は見当識は健常者と変わりません。その分、精神的な苦痛は大きく、耐え難い場合もあるだろうと推察します。一方でテクノロジーの進化を含むサポートで、社会との繋がりや生き甲斐を持ち続けることは十分可能だと考えています。

一方私たちが我が事として考えないといけないのは、年間死亡者数37万人、死因の4人に1人に上る癌です。末期となると激しい倦怠感や、褥瘡や神経節転位による強い痛みに苦しみます。

また、年間2万人が死亡するアルツハイマー病は、進行すると意思表示ができなくなります。そうなると残された家族に治療か、緩和ケアかの選択を任せるようになり、決断をした家族は辛い思いをすることになります。

事故や紛争などで若いうちに命を落とすことが極めて少なくなった現代、尊厳死について考えるのは、明日は我が身の自分事ではないでしょうか。

写真AC

2. 介護施設の「その先」のイメージをもとう

戦後の力強い発展によって先進国の仲間入りをした日本では、老後の関心というのは誰が面倒をみるのかという点でした。現代社会において姨捨山というのは物語の中だけの話になったでしょう。

しかし老後の貯蓄ができて介護施設が決まっても、「その先」があります。私たち歯科医も口腔ケア等で目の当たりにするのは、この部分です。

結局どんなに寿命を延ばしても最終的にヒトは死亡します。抗癌剤や手術をどこでやめるのか、心肺停止した場合に蘇生処置を行うのか。本人の意思がなければ家族や医師が決めることになります。

2000年代には本人の意思に基づいて延命治療を中断した医師が相次いで訴訟を受けました。これは1980年代から延命治療が飛躍的に向上し、その気になれば植物人間状態で活かし続けることが可能になった、副作用でもあります。

これを受けて厚労省はガイドラインを策定し、消極的安楽死の部分については概ね実施可能になっていると言えます。しかし法制化が十分でないので、消極的安楽死であっても決定した家族・医師は、別の親族からの訴訟リスクを抱える可能性が残ります。

(参考)人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン ― 厚生労働省(2018年3月)

まとめ

安楽死のイメージは今回の様な事件があると、薬剤の投与による「積極的安楽死」や、人工呼吸器を止めてしまう「延命行為の中断」が強く意識されます。これらの行為への反発や批判が強くあるのは当然だと思います。

しかし議論の対象はもっと裾野が広く、治療行為の不開始、心肺蘇生の不開始なども「消極的安楽死」と表現します。これは「尊厳死」と概ね同じ意味だとされています。

この様に尊厳死の議論をタブー視することは、知っておくべき医学的知識の普及を妨げて、大切な家族を訴訟リスクに晒す場合もあります。

一方で尊厳死が認められるようになった場合、現時点で老々介護や、介護失業などで極限状態にある方々の中で、尊厳死を推奨するようなモラルハザードが起きないか、最大限配慮する必要があると思います。

本当に「自分の意思であるか」確認するためには、若く健康なころから自分の最期についてどのようでありたいか、多くの人と話し合ったり、文書で残したりして、外形的に確認できるようにしていくことが必要です。

自分の意思をしっかり伝えるためにも、死から目を背けず、忌憚なく家族や友人の間で話し合いができる環境が望ましいのではないでしょうか。