追悼:日台の礎を築いた李総統

7月30日夜、台湾の元総統李登輝(り とうき)氏が享年97歳で亡くなりました。
残念でなりません。
心からご冥福を置いてします。

私は直接何度かお目にかかりました。
国会議員として台湾を訪ねたときや、総統を退いた後に李登輝事務所でお会いしました。我々と話すときは、いつも全て日本語でした。
というのも、李登輝氏は私は22歳まで日本人だったとはばかりませんでした。

1895年4月17日から1945年10月25日まで日本の統治下にあった台湾で生まれ育ち、台北高等学校卒業後は京都帝国大学(現京都大学)に入学しました。当時は同じ日本でしたから留学ではなく入学です。さらに台湾大学、アメリカのコーネル大学などで学びました。

メディアなどでは李登輝氏の紹介でよく“親日家”と書いてありますが、その表現を私は安っぽく感じます。単に日本が好きな親日家ということではなく、日本の教育を受け、民主主義を考え台湾を牽引しました。終戦まで日本人だった人として、その後は日本をよく理解し、そして時には日本に厳しいことを言った人でもあります。

李登輝氏の功績を語れば長くなりますが、端的に言えば、何よりも台湾の民主化をした人です。今、台湾は中国とは違い民主主義国と言えます。それはまさに李登輝氏の存在があってのことです。戦後、中国本土から追われた国民党の蒋介石元総統政権が長く続きました。実に1987年まで40年以上にも渡って中国国内の内戦という認識のもとで、長い長い戒厳令が続いたんです。その間、悲惨な事件もありました。

国民党政権下で李登輝氏は台北市長などを務め、やがて副総統になり、第3代総統蔣 経国(しょう けいこく)氏の急死によって総統になりました。

中国共産党との内戦状態ということで、それまでの国民党政権は独裁体制でしたが、それを民主化しました。国民党内のそれまでの権力者たちと凄まじい政争した後に、直接公選制による初めての総統選挙が1996年に行われました。台湾人が直接投票で、総統府を選ぶという体制になったわけです。

それ以降の総選挙では、民主進歩党の陳水扁で、中国国民党の馬英九、現在の民主進歩党の蔡英文と政権交代が続き、民主主義が台湾に根付きました。

1972年9月29日、日本は中国と外交関係を結ぶ日中共同声明に北京で調印し、国交のあった台湾と外交関係がなくなりました。しかし、台湾は日本にとって本当に重要です。

私自身のエピソードも一つ話します。

2001年に李登輝氏は心臓の手術などで初来日しました。日本人ではなくなってから初めての来日です。来日に際して当初、日本政府はビザの発給を認めようとしませんでした。すなわち日本に入国させようとしない、その背景には中国からの圧力があったことは間違いありません。

私は当時、人道的見地から李登輝氏の入国を認めるべきだとして、ビザ発給を求める議員連盟の事務局長を務めて活動しました。外務省にも乗り込みましたし、異論を挟み、圧力をかけ続ける中国大使館にも申し入れに行きました。そうした動きなどもあって、李登輝氏の来日は実現できました。

ちなみに昨日の尖閣諸島への中国の聖戦布告ともいえる状況をブログでお伝えしましたが、李登輝氏は明らかに日本領土だと明言をしてきました。それは李登輝氏が親日家だからではなく、日本人が住んでいた、明らかに歴史的に見て日本の領土だと言ってきたわけです。それこそ台湾に親日家が多いのも、李登輝氏の功績が大きいです。

というのも、日本は酷いことをしてきたというような教科書を、李登輝氏が改めたからです。日本を美化・賛美したのではありません。台湾に大学や鉄道、ダムなどを建設したり、公衆衛生環境を整えたりすることで、台湾を同じ日本として発展させたことを客観的に教育で伝えるようにしたからです。

97歳、ついに。という思いです。
同時に、こういう歴史の証人は次第になくなります。
しかし、日台関係を希薄にしてはならない、発展させなければならない。
我々は深く心に刻みたいと思います。


編集部より:この記事は、前横浜市長、元衆議院議員の中田宏氏の公式ブログ 2020年8月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。