資産隠しと収賄など不正疑惑で捜査対象となっていたスペインの前国王フアン・カルロス1世(82歳)が、子のフェリペ6世(52)に書簡を送り国外に出る「国を出る」と伝えた。
行き先はポルトガルやドミニカが噂されているが隠し財産への追及はやみそうもないし、年金の支払いは停止されているので、安楽な隠退生活には成らないだろう。しかし、2014年に退位することにはさまざまな問題が出ていたが、1975年に即位してから民主主義を定着させた恩人とされ、2005年の世論調査では支持率78%だった前国王に対する仕打ちとしては厳しすぎる感もないわけでない。
これから行方が注目されるので、今回は主にここに至るまでのスペイン王政の歩みを概観したい。ちょうど、『日本人のための英仏独三国志』(さくら舎)でも詳しく取り上げたのであるが、これは、スペイン王家の行方はこの三国にもおおいに関係をもって来たからだ。
何しろ、スペイン王の正式の肩書きは、スペイン、カスティーリャ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ナバラ、グラナダ、トレド、バレンシア、ガリシア、マリョルカ、セビーリャ、サルデーニャ、コルドバ、コルシカ、ムルシア、メノルカ、ハエン、アルガルヴェ、アルヘシラス、ジブラルタル、カナリア諸島、東インディアス及び西インディアス並びに大洋の島嶼及び陸地、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、ペルー、ヌエバ・グラナダ(コロンビア)、リオ・デ・ラ・プラタ(アルゼンチン)の王にして オーストリア大公、ブルゴーニュ、ブラバント、ミラノ、アテネとネオパトラスの公爵
ハプスブルク(スイス)、フランドル、チロル、ルシヨン、バルセロナの伯爵、ビスカヤとモリナの領主…etc(等々)で etcには、ハンガリー、ダルマチアとクロアチアの王や、ロンバルディアやルクセンブルクの公爵などが入るらしい。
このうちほとんどはスペインのレコンキスタ(国土回復運動)のために建国されスペイン統一の過程で吸収された王国やスペインの植民地だが、そのほかにハプスブルク(アプスブルゴ)家にちなむものや、ブルゴーニュ公国に由来するものも多い。
スペイン王国の歴史概観
アラブ人に征服されたイベリア半島だったが、北西部の山岳地帯で西ゴート王国の貴族ペラーヨが722年にイスラムの討伐軍を迎え撃って撃退しレコンキスタ(国土回復運動)を始めた。
このペラーヨの娘エルメジンダがカンタブリア公家に嫁して、夫であるアルフォンソ1世がアストゥリアス王になり、さらにアルフォンソの弟であるヘルムード1世が王となり、その子孫がカステリア王となり、王位を現在も占めている。
そして14世紀のイザベル女王は半島西部を領するアラゴン王フェルナンドと結婚してスペイン王国が成立した。しかし、その長男は夭折したので、娘の嫁ぎ先であるハプスブルク家の皇帝カルロス5世がスペイン王を兼ねた(のちにスペイン王家とオーストリア大公家に分裂)。
しかし、18世紀になって男系が断切してフランスのルイ14世の孫がフェリペ5世として即位し、現在もブルボン家が王位に就いている。スペインの場合には、過去の経緯から女系での相続も認められるし、庶子であっても継承したこともある。
特に、19世紀にはフェルナンド二世が愚かにも自分に娘しかいないので、これをイザベル2世に相続させたので内戦まで起きる羽目になった(カロリスタ戦争)。君主において自分に娘や孫娘しかいないのでそれまでの原則を破って継承させることを希望するほど愚かな行為なないのである。
このために王制はいったん廃止されたが、共和制もまた愚劣だったので王政復古となり(このときの共和派が政治用語としてのリベラルの語源らしい)、ルイ14世の男系男子に王位は戻った。
伝統的な国王と一線を画したファン・カルロス
その後、1931年に再び第二共和制になったが、スペイン内戦を経てフランコ総統が独裁体制を敷き、王国だが国王はいない常態になった。しかし、フランコは若いファン・カルロスに君主としての帝王教育を施し、死後に国王になることを認めた。
こうして保守派の期待の元に国王となったファン・カルロスだが、即位後は民主化を後押しし、伝統的な国王と一線を画した。
つまり、1976年にアドルフォ・スアレス・ゴンザレスを首相に任命し、民主化の実現に成功した。スアレスは1978年制定の新憲法で、国王は儀礼的な役割を果たすのみとして独裁体制に終止符を打つなど、旧体制の解体と西欧風の立憲君主制の確立に力を尽くした。
1981年2月にそのスアレスが首相を辞任すると、治安警察部隊が国会を占拠し軍事政権の樹立を求める事件が起きたが、このとき国王は三軍総司令官として軍服に身を固めてテレビに出演し、クーデターを決して認めないとして民主主義を維持することを国民に訴えたので、スペイン史上203回目といわれる軍事クーデターは失敗した。
2004年のアルカイーダによるテロ事件の直後にも、テレビに出演して国王が行った演説や、スペイン語圏の集まりでヴェネズエラのチャベス大統領の非礼な演説に「黙れ」と一喝して喝采を浴びてその声が携帯着信音として流行するなど、右と左の間で極端に揺れる可能性を秘めているスペイン政治において、国王の役割はなお小さくない。
ただ、チャベス事件は中南米では植民地帝国の傲慢と不評だったし、経済危機にもかかわらずボツワナで愛人とサハリを楽しんでいたことが発覚したことはいささかの傷となった。
転落のきっかけは娘婿のビジネス
さらに、娘のクリスティーナの夫君のハンドボール選手による不正事件もあり人気は落ち、一方、離婚経験者のテレビ・キャスターのレティシアと結婚した息子のフェリペの評判はよかったので2014年に譲位した(といっても、レティシアも激やせした時期があり、妹は皇太子妃の妹の立場の重圧もあり自殺した)。
しかし、ここへ来て、在位中に、サウジアラビア新幹線建設に関し、スイスの隠し口座を使ってサウジから不正に資金を受け取ったことや、そこから愛人に多額の金額を贈与した疑いが高まった。ただし、在位中の行為には免責特権があるため、スペインとスイスの当局により、退位後に不正がなかったか捜査が進行中だった。
日本では、皇族がビジネスに関与することは厳しく禁じられているし、戦後の混乱期で旧皇族が生活に困られていたような時期を除いて、内親王の嫁ぎ先でのトラブルもなかった。
ただ、某内親王と結婚の可能性のある男性が、アメリカでクラウドファンディングの集め方の研究に取り組んでいるなどと聞くと、スペイン王室の転落のきっかけも王女の結婚相手の金集めだっただけに、そういうことからは、距離をおいてもらわないと心配なのである。