8月12日はムルアカの日だ。私にとって、中川淳一郎にとって、そして私たちの仲間にとって大事な人である。ムルアカは、名古屋に遊びにきてくれたり。みんなで北海道や沖縄に行ったこともあったっけ。そもそも、ムルアカと出会ったのは、リクルートの社内掲示板「あいP」か「わっくん」で。懐かしい。ふと昨日はチャック・ベリーとジェイムス・ブラウンの幻のジョイントコンサートに行ったことまで思い出し。彼女はこの上なく無邪気で。でも、ときにしっかりもので。大変に人懐っこく、びっくりするくらい美しかった。
13年前のこの日、ムルアカは突然旅立ってしまった。彼女は自ら命を断ったのだった。
あの日、僕はSUMMER SONICに行っており。真夏の暑い昼なのに、マリンステージでレミオロメンが「粉雪」を演奏し。「ムルアカ、レミオロメンが粉雪を演奏しているよ」とガラケーでメールを打ち。でも、体調を崩している彼女に、自分だけ楽しんでいて申し訳ないなと思い。送信をするのをやめ。その晩、彼女は旅立った。毎年、書いているエピソードで。
その後、レミオロメンが「僕らの音楽」「SONGS」などで演奏する際に、それは代表曲であって本当によく聴くわけなのだけど。「僕らの音楽」では草なぎ君が毎回「今夜、お台場から特別にお届けします」と連呼し。特別という言葉が毎週でありがたみがなかったのだけど。でもレミオロメンの「粉雪」はこういう理由から特別だった。
葬儀の日、中川を一人にさせたくないので、クルマで行き。なぜか、ガンズ・アンド・ローゼズをかけたこと。さらに、その場にいた仲間を送っていくときに、プリンセスプリンセスの「M」のカバーバージョンがなぜか流れ。黙って泣いたことを思い出す。
ちょうど僕は処女作を書いている頃で。中川淳一郎も「ウェブバカ」で大ブレークする前で。僕たちが何者でもなかった頃、僕らとムルアカは楽しい日々をおくったわけだ。
47歳でセミリタイアを実現、人生を好転させた「ある出会い」とは?(マネープラス)
先日、中川淳一郎のセミリタイア祝いのサプライズ壮行会があり。お呼ばれし。たくさんの著名人が集まっていて、自分が明らかに一番売れてなくて恐縮したのだけど。そうか、仕事以外で知り合ったのは私だけだったね。
互いにそれぞれ炎上したり。なんせ、7年前の今頃には「Session-22」で番組ごと炎上して、そのまま3時まで飲んだりしたけれど。たくさんの出会いや別れがあったけれど。RCサクセション「君が僕を知ってる」を思い出したり。
中でも今年は特別で。中川はなんせ、セミリタイアし移住をするわけで。私も15年住んだ墨田区を離れ、大田区に。
「仕事(メディア出演、イベントなど)」や「会合」で会う機会が増え、純粋にプライベートな場が減った十数年でもあったけど、今年の8月12日は何か、昔の空気で。ありがとう。
まるでプロレスのタッグのような2ショット。思えば、彼と公式な共著は一冊もなく。しばらくイベントもメディアでの共演もしておらず。まあ、それくらい彼の方が常に自分の数歩先を歩いているわけだけど。
ムルアカがなくなった頃、私はまさに彼女のおかげなのか、凄まじい勢いで書いており。『左ききのエレン』ではないですが「書けよ」と言われているような気がし。書きますとも。その先に、彼とのコラボの機会が、あるかな。
ありがとう。
極めてプライベートな話だけど、私と中川くんにとってはとても大事なことなのだ。徹底的に生きるのだ。
ここまで語ってあれだけど。大切なことなので、釈明しているが。私がこうやって書けるのは13年の年月が経っているわけで。決して自殺を美化しているわけではない。ここまで乗り越えるのに、中川や私がいかに大変だったか。そして、自殺の報道があるたびに考える。明らかにWHOのガイドラインに抵触した報道も多々見受けられる。木村花さんも、三浦春馬さんもそうだった。
毎年、私はこのことを書いているが、それは自分にとって大切なことだからだ。そして、ムルアカのことを知っている人は、古くからの友人が中心なわけで。ずっと読み続けている仲間に彼女のことを少しだけでも思い出してほしいわけで。
友人が自殺するという衝撃があったのにも関わらず、1年に4回くらい生きているのが辛くなるのだけど。でも、徹底的に生きることを私は続けたいと思う。
合掌。
編集部より:この記事は千葉商科大学准教授、常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2020年8月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。