友人の紹介で、石射猪太郎「外交官の一生」を拝読。
満州事変時の吉林総領事、上海事変直後の上海総領事、そして日中戦争勃発時の東亜局長と、悪化の一途を辿った日中関係の最前線にあって、軍部独走に抗しつつ和平の道を模索しつつも、最後は敗走のビルマ大使として終戦を迎えた外交官が、日記をもとに綴った第一級の記録。
「私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田(弘毅)大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛清を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和十三年一月末、数日間のでき事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。」
など南京事件が社会的な問題になる前から南京事件についても触れている。
外務省の先輩である広田弘毅内閣総理大臣・外務大臣に対する見方も、城山三郎著「落日燃ゆ」とは異なり、面白い。逆に、同じ先輩である吉田茂氏のことが全く出てこないのも興味深い。
この本では正面から触れられていないが、なぜ国民は、メディアは、満州事変、国連離脱、日中戦争、日米戦争・・・を常に煽ってきたのか。
〇正しい情報が伝わってなかったから?
〇日露戦争の勝利で国民の意識が変わったから?
〇国全体が貧しく、雇用や資源を求めたから?
終戦75年の今日、考えた。
編集部より:この記事は、井上貴至氏のブログ 2020年8月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は井上氏のブログ『井上貴至の地域づくりは楽しい』をご覧ください。