「関与政策」で独裁政権は変わるか

長谷川 良

ドイツのメルケル首相は来年秋には政界から引退すると表明して以来、政治的生命は終わったと受け取られていたが、中国武漢発の新型コロナウイルスの欧州感染拡大を契機に政治的影響力を回復してきた。

▲昨年9月、中国武漢市を視察中のメルケル独首相(独連邦首相府公式サイトから)

▲昨年9月、中国武漢市を視察中のメルケル独首相(独連邦首相府公式サイトから)

ところで、欧州連合(EU)の議長国議長として活躍するメルケル首相には「ロシア、イラン、中国など共産国や独裁国への対応が緩やか過ぎる」といった批判がこれまでも絶えなかった。同首相はそれらの問題国の指導者と対話、交流を重ね、経済交流を推進していけば、それらの国もいい方向に変わるという「関与政策」の信奉者だ。それに対し、ポーランドのワルシャワ東方研究センターのコンラード・ポプラブスキ氏(Konrad Popławski)はメルケル首相の対共産圏・独裁国への関与政策について、「独裁国に金を与えたぐらいで、その国が変わることはない」と述べ、注目を浴びている。

ポプラブスキ氏は中国共産党政権を例に挙げ、「メルケル首相は中国を戦略パートナーと呼び、欧州全体にとって中国は重要だと強調し、中国共産党政権との対話の必要を執拗に主張してきた」と説明している。

実際、メルケル首相は欧米首脳の中で北京を訪問した回数では飛びぬけて多い。同首相は昨年9月5日にも3日間の日程で訪中している。12回目の訪中だった。訪中にはいつものようにドイツ産業界からVWやBMWなど同国経済を代表する企業代表が随伴した。米中貿易戦争の真っ最中、香港で連日民主化デモが行われている時、西側首脳として初めて中国入りしたわけだ(「メルケル首相の12回目の訪中は?」2019年9月8日参考)。

ドイツで今年、チェチェン紛争の時、ロシアに抵抗した武装勢力を指揮したグルジア人男性がベルリンの路上でロシア政府が差し向けた殺人者によって暗殺されるという事件が起きたが、メルケル政権は事件の全容解明には余り熱心ではない、という批判の声が聞かれる。

メルケル首相の「関与政策」はどこからくるのだろうか。ドイツでは共産圏、独裁国との「関与政策」を始めたのはメルケル首相が初めてではない。ドイツが東西に分かれていた時、西ドイツのヴィリー・ブラント首相(在任1969~74年)はコンラード・アデナウアー政権後、東ドイツを含む東欧諸国との関係正常化に乗り出した。社会民主党のブランド首相が展開した外交は「東方外交」と呼ばれた。ただし、ブラント氏は1974年、自身の秘書ギュンター・ギヨームが旧東独のスパイだったことが発覚し、辞任に追い込まれ、東方政策は一旦終わりを迎えた。しかし、コール首相時代を経て、東西ドイツの再統合後、コールの愛弟子メルケル首相が登場すると、「関与政策」として蘇ってきたわけだ。

ポンぺオ米国務長官は7月下旬、カルフォルニア州で演説し、自由民主世界に対する中国共産党政権の脅威を強調し、「自由民主主義」対「共産主義」というイデオロギー対立を強調、中国の習近平国家主席を「全体主義イデオロギーの真の信奉者」と批判し、中国共産党の「暴政」に自由世界が打ち勝つことが「現代の使命」とまで呼び掛けている。共産国、独裁国への「関与政策決別宣言」をした米国は、欧州ではメルケル首相が障害とみて、“ドイツ外し”に乗り出してきている。駐独米軍の兵力削減もその一環だろう。最近では、ロシアの天然ガスをバルト海底経由でドイツに運ぶ「ノルド・ストリーム2」の海底パイプライン建設問題で、トランプ政権は「欧州がロシア産のエネルギーに依存を深めることは欧州全土の安全問題にとって危険だ」として、ドイツ側に計画の見直しを強く要求している(「『ノルド・ストリーム2』完成できるか」2020年8月6日参考)。

ただし、ドイツ国内では中国共産党政権に対する警戒心は深まっている。ドイツのホルスト・ゼーホーファー内相は7月9日、ドイツの諜報機関、独連邦憲法擁護庁(BfV)がまとめた2019年版「連邦憲法擁護報告書」を公表した。388頁に及ぶ報告書の中で中国の諜報、情報スパイ活動に対しても異例の強い警告を発している。

BfVの報告書では「習近平国家主席が政権を掌握した2012年11月以後、諜報・情報活動の重要度が高まった」と指摘、習近平主席は情報活動を中国共産党の独裁政権の保持のために活用してきたという。ドイツでは先端科学技術分野で独自技術を有する中小企業にターゲットを合わせ、企業を買収する一方、さまざまな手段で先端科学情報を持つ海外の科学者、学者をオルグしている(「千人計画」)と指摘し、「中国の諜報、スパイ活動を甘く見てはならない。彼らの諜報活動は北京の共産党政権直々の指令のもとに動かされているからだ」と説明しているのを見ても分かる。

それに先立ち、ドイツのシンクタンク、メルカートア中国問題研究所とベルリンのグローバル・パブリック政策研究所(GPPi)は2018年1月5日の時点で、「欧州でのロシアの影響はフェイクニュース止まりだが、中国の場合、急速に発展する国民経済を背景に欧州政治の意思決定機関に直接食い込んできた。中国は欧州の戸を叩くだけではなく、既に入り、EUの政策決定を操作してきた」と警告している。(「独諜報機関「中国のスパイ活動」警告」2020年7月12日参考)。

そのように考えると、共産国や独裁国への甘い関与政策はメルケル首相の個人的信条が強く反映した結果と受け取れる。旧東独出身で牧師の家庭で成長したメルケル首相には「共産主義に対して誰よりもよく知っている」という自負があるだろう。同時に、共産国の指導者に対して人間的なシンパシーを感じるといったアンビバレントな精神状況も考えられる。犯人と犠牲者との間の「ストックホルムシンドローム」ではないが、その変形型症候群だ。メルケル首相はポンぺオ国務長官のようなイデオロギーに基づいた批判はしない。メルケル氏は共産主義社会で成長した政治家だからだ。一方、ポンぺオ国務長官は共産主義国での実態体験がないからイデオロギーの面を強調せざるを得ないわけだ。

ロシアの著名な反体制派指導者、アレクセイ・ナワリヌイ氏が何者かに毒を盛られ、危篤状況に陥った時、メルケル首相は素早くモスクワのプーチン大統領に電話を入れ、ベルリンで治療したいと支援を申し入れている。それは直ぐに受け入れられ、ドイツは運送救援機を現地の西シベリアに派遣し、移送が許可されるとベルリンのシャリティ大学病院に運んだ。このニュースはメルケル首相とプーチン大統領の間に人間的信頼関係があることを証明している。フランスのマクロン大統領がプーチン氏に同じような申し出をしたとしてもプーチン氏は受け入れなかっただろう。

十数年に及ぶメルケル首相の共産国・独裁国への関与政策は欧米諸国が考える以上に深い。トランプ大統領がメルケル首相を苦手とするのも当然かもしれない。ただし、前者は今年11月の再選というハードルがあり、後者は引退時期が迫っているという事情があるから、米独関係は来年に入れば、今とは全く異なってくる可能性が十分考えられる。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年8月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。