マッカーサーとの会見
8月15日、近衛はこの日、母貞子の訃報と玉音放送を小田原入生田の別荘で聞いた。終戦に導いた鈴木貫太郎内閣は総辞職、17日に東久邇宮に大命が降り、近衛も副総理格の国務大臣として入閣した。
8月30日、厚木に降りたマッカーサー連合国最高司令官は、9月2日に東京湾のミズーリ艦上で降伏文書調印式を行い、11日には東條英機以下39名を戦犯に指名、逮捕を命じた。翌12日、東条はピストル自殺を図るも一命を取りとめた。
9月13日、近衛は横浜のグランドホテルにマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは軍閥への嫌悪感を露わにし、近衛にその破壊を期待した。近衛は満州事変以降の経緯説明をしたが、拙い米軍通訳のため話はすれ違った。
10月4日、近衛は9月27日に行われた陛下とマッカーサーの会見の好首尾を見届け、マッカーサーを日比谷に訪うた(通訳の奥村勝蔵が同道)。政治顧問アチソンと参謀長サザランドが同席し、近衛は日本のこれまでの状況を述べた。それは、次のような趣旨だった。
米国の見方同様、冒頭で軍閥と国粋主義者の跋扈を述べ、ただし皇室を中心とする封建制力と財閥の役割は、米国の理解とは逆に軍閥を抑制するものとした。そしてマルクス主義者が軍閥や国粋主義勢力を助長し、軍閥と左翼の結合勢力が日本を破局に陥らせたとした。
最後に、自分はこれまで思うことを十分成し遂げられなかったが、今後、元帥の激励と助言により、国家のため奉公したいと述べたが、要旨は2月の奏上とほぼ同じで、共産主義への懸念を露わにしている。話を聞いたマッカーサーは次のように述べて面会を終えた。
まことに結構。公はいわゆる封建的勢力の出だが、コスモポリタンで、世界の事情にも通じておられる。また、まだお若いので敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるなら、議会もこれについてくると思う。
このように、この10月4日の時点で米国は、近衛に大いに好意を寄せ、期待していたと知れる。
総司令部の共産主義者
ところが、この近衛の2度目のマッカーサー会見を境に、近衛を貶めるような出来事が次々と起こる。近衛の天皇退位発言も議論を呼んだ。
10月4日、総司令部は、政治犯の即時釈放、特高警察の廃止等に加え、内務大臣や警視総監らを罷免する通達を出した。この日、総司令部政治顧問のジョン・エマーソンと調査分析課長のノーマンは、共産党幹部の徳田球一と志賀義雄を府中刑務所に訪ね、釈放が近いことを告げている。
エマーソンとノーマンに少し触れておく。エマーソンは駐日米大使館から41年10月に帰任、戦時中は重慶と延安に勤務した中国派で毛沢東贔屓の外交官だ。45年9月1日に第一陣で来日し、総司令部政治顧問になった。40年5月から駐日カナダ公使館にいたノーマンと東京で知り合った。
延安でエマーソンは岡野進(野坂参三)と会い、天皇制についての議論もした。岡野は「現実的視野に立って、国民の総意に反対すべきでないとし、天皇を“装飾”として残すことに反対しない(といった)」と、大森実のインタビューで述べている(大森実「戦後秘史4」)。
鳥居は、マッカーサーの副官で横浜終戦連絡委員会のマッシバー委員長が9月13日、外務省の鈴木九萬にエマーソンの作成とされる戦犯リストを手渡したが、そこに広田弘毅や内田良平らの名があることから、ノーマンがこれに協力したことを示唆する。
後で詳述するが、ノーマンは羽仁五郎にも師事した日本近代史の研究家で、国本社や黒龍会や玄洋社などの日本の国粋主義団体にも造詣が深いからだ。内田は玄洋社のメンバーで黒龍会の創立者だが、物故していたことまでは知らなかったか。
広田も若いころ父の関係で玄洋社に入り、学資の援助も受けた。が、政治歴を見れば、このクリスチャンにその影響があったとは思われない。但し、城山三郎が「落日燃ゆ」に書くように、「罪状認否すら口にしない」ようなことはなく、IPS調書で語った木戸の役割については後述する。
天皇退位論と新聞の近衛叩き
10月5日、東久邇内閣から幣原内閣に代わった。近衛は憲法改正に取り組むべく入閣せず、8日にアチソンを訪ねて意見交換した。アチソンは、政府が議会に責任を負う英国のような制度、警察制度と教育制度の改革と中央集権の排除などの私案を示した。11日に内大臣府御用掛を拝命した近衛は、半年程度で奉答すべく作業に入った。
同じ10月11日、近衛は米国記者に天皇退位の問題を喋り、それがNBCで放送され、APが東京に送信、14日に前日にも第一報を報じた日本各紙は、APが送信した近衛と米国記者の次のような一問一答を詳報した。
近衛公は私に、「日本憲法は天皇からほとんどすべての体験を取り離す、そして立憲君主制を確立することを明らかにするかもしれない」と語った。憲法改正で天皇がご退位なさらねばならぬことになるのでは、との質問に公は「陛下はこの問題について重大なご関心を払っておられる」と答えた。
陛下はマッカーサー来日の前日、木戸に「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして収める訳にはいかないだろうか」と下問した。マッカーサーとの会見でも、同じ趣旨のご発言をなさった。
近衛発言の真意は、この陛下のお気持ちを踏まえたものだろう。近衛は44年7月にも木戸に天皇退位について話している。43年12月にシカゴで天皇擁護の演説をしたグルーが、44年5月に国務省極東局長になったことをシグナルと受け取った近衛が、木戸に降伏条件の一つとして述べたことだった。
45年6月にも近衛が、「譲位は強要にする形にせず、其の前にご自身の自発的形式をとる。重臣その他も引責辞任する、新人物が後図を収拾することを考えている。摂政は勿論、高松宮か」と述べたことを部下の高木惣吉が記録に残している(鳥居前掲書)。
10月17日、日本社会党の設立準備委員会で「内大臣府で憲法改正に取り組んでいることへの非難の声が出た」と報じられた。非難した加藤勘十・シズ江夫妻は総司令部に足繁く出入りしており、エマーソンも20日の報告書で、総司令官と参謀長にその記事を報告した。
10月21日、近衛はAP記者と再び会った。が、22日のニューヨークタイムズに載った近衛発言のニュアンスが、「マッカーサーが憲法の改正には天皇退位の新しい規定が含まれることになると語った」ように受け取れるものだった。
10月23日、朝日新聞が元のAP電を報じ、近衛が14日のマッカーサー会見について次のように述べたことが書かれていた。
元帥は会見劈頭、日本憲法を自由主義化する必要のあることをはっきりと言明し、自分(*近衛)にその運動の先導をなすよう示唆した。天皇のご退位に関する規定は現行の皇室典範には含まれていない。改正皇室典範に退位手続きに関する条項を挿入する可能性を検討することになろう。
これで天皇退位の発言が近衛のもので、マッカーサーのものでないと判った。が、近衛は非難の的となり、25日には朝日と読売が一面トップで、「退位条項挿入のご下命拝せず 近衛公語る」と報じた。近衛は陛下の不興も買った。
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