スペインの前国王ファン・カルロス1世が8月3日、スペインを離れたことが日本でも報じられた。一部報道またその後の論評でそれを「亡命」と表現していたが、これは適切ではない。
亡命というのは政治や宗教上の問題から自らの生命の保護を求めて離国することである。今回のファン・カルロス前国王の場合はそれには該当しない。前国王はスペインで政治的また宗教的に迫害されたことはない。また、彼自身も亡命を求めて離国したのではない。現政治体制である立憲君主制を救うために「離国」したのである。
彼の40年の治世はスペインの国王の中で最も優れた国王の一人と専門家の間では評価されている。フランコ将軍による独裁体制から民主化への移行を保証するかのような存在であった。フランコ将軍が亡くなって初代首相を務めたのはアリアス・ナバッロであったが、彼は独裁政治の流れを汲んだ政治家だとして国王だったファン・カルロスは当時の中央政界では全く無名だったアドルフォ・スアレスを首相に起用した。
アドルフォ・スアレスは非常にカリスマ性の高い政治家だった。当時はそれまで39年に及ぶフランコ独裁体制下で抑圧されていた政治イデオロギーが一挙に爆発したかのように異なった政治イデオロギーが誕生していた。スアレスは民主化への移行に一丸となって取り組む必要があるとして政治イデオロギーの異なった16の少数政党をひとつにまとめて中道民主同盟を創設。それが出来たのも、背後にファン・カルロスが国王として控え、その民主化への移行を全面的に支持していたからであった。スアレス首相にとって、何か問題が発生するればファン・カルロスに援護を頼めるという安心感があった。
また、ファン・カルロスは民主化への移行には共産主義者も参加が必要だとして、フランスに亡命していたサンティアゴ・カリーリョに使者を送ってスペインへの帰国を要請した。スペインのポデモスや左派連合が今存在できているのもファン・カルロスのお陰である。
ところが、ポデモスと左派連合は今、ファン・カルロス前国王が築いた君主制を崩壊させて共和制を樹立させようとしているのは皮肉である。
ファン・カルロスも人間だ。40年間国民の模範として存在し続けることに疲れを感じていたようだ。また、これはブルボン家の伝統でもあるが女性関係に問題を抱えるのが常であった。
ファン・カルロスの場合はそれがドイツ人の愛人コリーナだった。当時のスペインは経済危機にあった。にもかかわらず、国王が愛人とゾウ狩りに行っていたということが公に知られて国民から批判を浴びた。
共和制の擁立を支持するポデモスらはこのスキャンダルを君主制廃止の良いネタとした。それまで眠っていた共和制支持者が目を覚ましたのである。特に、若い年代層で支持者が多い。スペインはこれまで2度共和制になったが、どちらも短命に終わっている。
若い世代はフランコ独裁体制下の弾圧政治を知らない。また、ファン・カルロスが民主化への移行に多大の貢献をしたことも知らない。ましてや、1981年2月23日の一部軍部と治安警察によるクーデターがあったことも知らない。それを未遂に終わらせたのもファン・カルロスの活躍に依存するところが非常に大きい。筆者はこれらの出来事の目撃者でもある。
8月10日付で右派系の電子紙『La Razón』がNCレポートに依頼した世論調査(8月6日から8日まで実施)を掲載した。それによると、君主制の支持率は54.8%、共和制への支持率は38.5%。それを年齢別に見ると、55歳以上は君主制を支持している人が74.6%、35歳から54歳までだと49.3%。それに対し、共和制を支持しているのは18歳から34歳までが62.2%、35歳から55歳までが45.3%という結果になっている。
つまり、共和制を支持している人たちの大半は独裁体制下と民主化に移行した当初のスペインについては目撃者ではないということだ。だから、ファン・カルロスが国王として存在した治世は全く知らない。また、スペインの企業を世界に売り込むのにファン・カルロスが果たした役目は非常に有効であった。彼はスペインを代表する強力な大使であった。
ファン・カルロスは国王になってから一生国民の前に模範を示す必要があった。しかし、彼も人間だ。特に、スペインが政治的そして経済的に安定してからは俗人になった感も否めない。
国王とは思えない庶民的で親近感を与える性格をもっている。その俗人的な振る舞いをうまく突くいたのが共和制支持者である。彼らはファン・カルロスの過ちを利用して君主制は過去の遺物だ、市民が直接国家の君主を選ぶべきだとして共和制の設立を説いている。
スペインの複数の主要メディアのトップのポストを歴任したルイス・マリア・アンソンは、グローバルな視点から彼の評価をすべきだと指摘している。浮気や違法に資金を稼いでいたといった部分だけを拡大してみるべきではないということだ。
それにしても、サンチェス首相は断固ファン・カルロスを擁護する姿勢を表明すべきであったが、連立政権を組んでいるポデモスとの関係からそれを明確にしていなかった
そもそも、君主制を支持する政党と共和制を支持する政党が連立政権を組んでいるというのも無理がある。今月からポデーモスは共和制創設に向けて積極的に活動することを表明している。そのような政党と連立政権を組んでいるサンチェス首相の社会労働党は正常な姿ではない。サンチェス首相はこれまでも政権にしがみつく為に数度嘘をついている。一般に彼への信頼度は薄い。ということから彼も内心は共和制支持者かもしれない。実際、ルイス・マリア・アンソンは「第3共和国の最初の大統領になるのはサンチェス首相だ」と皮肉ったこともある。
いずれにせよ、ファン・カルロスはスペイン国内で君主制か共和制かという論争が鎮まった段階でスペインに帰国するのは間違いないと筆者は見ている。彼は誰にもましてスペイン愛国者であるからである。