かつて、大きな土木工事では、事故は避け得ないものとされていて、一定数の死傷者の発生は予定されていたであろう。実際、困難な工事では、多くの犠牲者がでたのである。その後、土木の技術は飛躍的に高度化し、万全の安全対策がとられるようになって、今日、大規模な事故で多数の死傷者がでたという報道に接することも稀になった。しかし、作業員の死亡を伴う事故が皆無になったということではない。やはり、事故による犠牲者の発生は不可避なのである。
当然、土木会社としては、工法の工夫、技術の改良、安全確認の手続きの精緻化などにより、犠牲者の最小化に向けた努力を怠ることはできない。しかし、そうした努力は工事原価の上昇につながらないであろうか。競争的条件のもとで受注しているなかで、原価上昇を受注価格に反映できるであろうか。
更に、哲学的な問いを提出するならば、仮に、犠牲者一人に1億円の補償をするとして、最大で数名の死亡事故を見込んだときに、その死亡事故の可能性を根絶する努力に10億円を見込まなければならないとしたら、そのような努力はなされ得るであろうか、また、こうした悪魔の経済計算は倫理的に許されるものであろうか。
実は、哲学的に解けない難問は政治的に解くほかなく、悪魔の経済計算が許されないからこそ、規制による安全基準が定められているのである。安全基準は、社会通念に照らして、また土木学会の標準的見解を参照して、公権力の強制によって策定されているのだが、問題の本質は変わりようがなく、規制による安全基準には、あからさまにいって、公権力による悪魔の経済計算という面を否定できない。
安全基準に厳格に準拠することは、確かに完全性の確保を目的としているのには違いないが、実際の効果としては、安全基準に準拠している限り、事故は不可抗力とみなされて、土木会社の免責要件が確保されている点が重要である。つまり、より高度な安全性を実現しようとする努力は、経済誘因によっては促し得ないため、強制により安全基準に準拠せしめる必要があるのだが、そのことは、同時に、業界共通の条件が設定されることで、安全基準以外の領域における自由競争を促しているのと同じことなのである。
要は、資本主義の経済原理の根源的矛盾の露呈に対して、その矛盾を公権力の介入で修正して市場原理の枠に収めるのが規制というわけである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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