アメリカ黒人問題の歴史をその根源から知るべきだ

八幡 和郎

アメリカ大統領選挙で黒人に対する人種差別問題が焦点になっているが、日本人は現在起きていることを表層的に知っているだけである。しかし、この問題がアメリカにとってどういう問題であるかを理解するためには、その歴史を知らねばならない。ここでは、「アメリカ大統領史100の真実と嘘 (扶桑社新書)のあちこちから抜粋する形でアメリカにおける黒人問題の基礎知識を提供してみよう。

イギリスでは1713年にスペイン継承戦争の停戦条件のひとつとして奴隷貿易への参入が認められて、アメリカにも多くの黒人奴隷が運び込まれました。

アフリカにおける奴隷狩りの様子(Wikipedia:編集部)

黒人奴隷は、沿岸部の黒人に武器を与えて内陸部の黒人を打ち負かして連れてこさせる方法が多く採られました。そう言う意味では白人は余り奴隷狩りはやってません。しかし、それを責任逃れの材料にするのは絶対に認められなくなっています。

そして、非常に劣悪な状態でアメリカ大陸に運んだので、何割かは死んだそうです。

1807年には奴隷貿易が禁止され、黒人同士を結婚させたり農場主が女奴隷に子供を産ませたりして補充し、その数は400万人ほどに増えてました。

リンカーンは奴隷をすぐに解放しようとは思っていなかったし、黒人と白人が共存するアメリカ合衆国をめざしていたわけではなかった。既得権としての奴隷制度は認めるが、それを南部に限定することと、いずれは有償で解放し中南米のどこかにつくった黒人国に移すことを考えていたようです。

特に混血を嫌い、奴隷制こそが混血児の誕生を促進していると考えていました。なぜなら、北部の自由州での混血児の誕生は少なかったからです。

しかし、南部がリー将軍らの活躍で予想外に善戦するなかで黒人の離反を促すとか、北軍の保護下に入ってきた黒人の扱いに困ったという事情もあるなかで、ゲティスバーグでの勝利(1863年7月)の機会を捉えて南部に最後の一撃となるベく断行されたのが「奴隷解放宣言」(1863年1月1日)です。

閣僚たちと話し合って宣言の草稿を作るリンカーン大統領(Francis Bicknell Carpenter画/Wikipedia:編集部)

アンドルー・ジャクソン大統領は、黒人の公民権を認めた憲法修正第14条に拒否権を行使し、急進的な南部再建策に抵抗しましたが、議会は南部を軍政下において黒人に投票権を与える一方、北部からやってきたカーペットバッガーや親北部の南部人であるスキャラワグに地域を支配させました。『風と共に去りぬ』で書かれているとおりです。

そこで、南部では、白人はKKK(クー・クラックス・クラン)が迷信に傾きがちな黒人を脅して共和党への協力をやめさせる動きが盛んになっていました。

1876年の大統領選挙では、 ヘイズ(1822~1893年)大統領は、疑惑濃厚な南部三州の票を別にすると、対立候補のティルデン有利でした。そこで特別の立法が行われ、南部3州の集計が有効とされ逃げ切りました。南部からの連邦軍の撤退が引き替え条件だったと言われます。南部では旧支配層が完全に復活し恣意的な条件をつけて事実上、黒人の公民権は奪われ、それが回復するには1960年代にキング牧師らによって展開される公民権運動を待たねばならなかったのです。

南北戦争中の1863年における「奴隷解放宣言」と65年の憲法修正13条でアメリカの奴隷制度は廃止され、1868年施行の憲法修正第14条で黒人の市民権も認められ、1870年の憲法修正第15条で投票権を制限することが禁止されました。

これを批准することは南部諸州の連邦復帰の条件でもあり、黒人の選挙権は認められました。しかし、旧支配層が復活すると、黒人への差別は強まり、「プレッシー判決」(1896年)で「隔離はしても平等」“separate but equal” なら差別ではないとされたことで劇場、公衆トイレ、刑務所、学校などで人種による分離がされました。

また、選挙権の行使でも1890年あたりから、「ミシシッピ・プラン」で、「人頭税」や「読み書き試験」を条件とすることにより、排除が進みました。しかし、二度の世界大戦での黒人兵の貢献もあり、徐々に見直しが図られ、1954年の「ブラウン判決」では、公教育における分離政策を違憲としました。

1950年代に黒人によるバス・ボイコット運動が始まりました。とくに、アラバマ州モンゴメリーでは、26歳のマーティン=ルーサー=キング牧師が指導者として頭角を現し、63年の25万人ワシントン大行進を率い、ケネディ大統領はミシシッピ州立大学が黒人学生の入学を拒否したことに対し連邦軍を投入しました。ケネディ暗殺後の1964年には、公民権法が成立しました。 また、人種別の割り当てをして優遇しようというアファーマティブという考え方も採り入れられました。

キング牧師(Wikipedia:編集部)

しかし、小さな政府で公教育や公的医療が充実していないアメリカでは、黒人の社会的進出はなかなか思うようには進みませんでした。それでも、徐々に高等教育を受けた黒人の数も増加し、また、テレビなどでは登場人物に多様な人種を登場させることが求められるようになりました。

そして、2008年にはケニアからの留学生の子で奴隷の子孫ではありませんが、バラク・オバマが、大統領に当選しました。しかし、オバマはあえて黒人を直接のターゲットにする政策は避けたところもありました。

そして、このところ特に問題になったのが、警官による差別的な職務質問や些細な抵抗を理由とする黒人射殺などで、とくにスマホによって証拠となる現場が撮影されることが多くなり、それが今年のジョージ・フロイド事件でもものをいうことになりました。

私は、歴史は現代の問題を考えることに役立ててこそ学ぶ意味があるし、また、通史的な知識を踏まえない現代社会の理解もまた浅薄なものだと思う。そういう意味で現代の問題を当事者意識で捉えられない歴史研究者など価値がないし、歴史を知らない政治評論家や学者もあまり価値はないと思う。