HSBCの苦境は「対岸の火事」ではない

有地 浩

今週初め日本が4連休で株式市場が閉じている間に、欧米では株価が大きく値下がりした。新型コロナの第2波の感染拡大懸念が広まりつつあることなどが理由とされている。

この中でも、金融株の下げがきつかったが、特にロンドンと香港の両株式市場に上場しているHSBCホールディングス(以下「HSBC」)の株価は急落した。

HSBCが苦境に立たされた要因は?(flickr

21日月曜日には香港市場に上場しているHSBC株は、一時29.60香港ドルと1995年以来25年ぶりの安値を付け、24日にはさらに下がって28.60香港ドルとなっている。年初からの下落幅でみると、ロンドンでも香港でも50%以上の下落だ。

HSBCの株価の急落の理由はいくつかあり、新型コロナによる不良債権の増加懸念や国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が米国財務省の内部文書を分析して、HSBCを含む世界の主要銀行が、マネーロンダリングに利用されていたと報道したこともあるが、HSBCにとってもっと重大な問題は、米中対立の中で中国政府との関係が危うくなっていることだ。

中国商務省は19日に、国家安全保障を損なう外国企業等を「信頼できない企業」に指定して、これらの企業の中国との取引を制限する新制度を発表した。そしてこれに追い打ちをかけるように共産党系の環球時報は、この「信頼できない企業」リストにHSBCが掲載される可能性があると報じた。

広く知られているように、HSBCは、1865年に当時のイギリス領香港で創業し、その1か月後には中国の上海に支店を開設して以来、中国と密接な関係を保ってきた。HSBCのHは香港の頭文字、Sは上海の頭文字に由来している。今でもHSBCの全世界の事業の中で香港に本店を置く香港上海銀行のウェイトは大きく、最近では中国本土での事業も活発化させている。2020年上半期のHSBCの利益の約80%は香港と中国本土で得たものだ。

HSBCはこれまでも香港・中国に偏った経営を他のアジア地域を始めとする世界の他の地域に分散させようとしてきたが、これまでのところは目覚ましい成果は出ていないようだ。

そうした中で、最近の香港の政情不安によって資金の香港の外への流出が生じており、また今後予想される香港の金融センターとしての地位低下に伴ってHSBCの収益基盤が大きく毀損する懸念が大きくなっているが、その中での米中対立の激化だ。

昨年末、香港デモの跡が生々しいHSBCの店舗(Studio Incendo/flickr)

香港への国家安全維持法の導入を巡っては、昨年以来香港の言論の自由と人権を守ろうとする活動家と香港政庁の間で激しい対立が続いてきたが、HSBCは今年の6月になってアジア地区の最高責任者が、香港への国家安全維持法導入を支持することを公に表明した。

これに対して、当然のことではあるが、アメリカのポンペイオ国務長官を始めとする主要国の政府当局者、投資家等はHSBCのこの姿勢に厳しい批判を浴びせた。

しかし、それならHSBCの態度が中国側で賞賛されたかというとそうではなく、中国共産党系の環球時報は、HSBCの態度は曖昧という批判を行い、また中国政府系のウェッブサイトは、ファーウェイの孟晩舟・副会長兼最高財務責任者が米国のイラン制裁に違反してカナダで逮捕された事件について、HSBCが悪意を持ってアメリカ当局に協力したとのコラムを掲載した。

HSBCはまさに中国と自由主義諸国の間で股裂きになっているのだ。

今後HSBCが中国でこれまで同様の事業を続けるためには、中国の言いなりになる必要が出てくるだろうが、それでは資本主義諸国の投資家は、HSBCの株を持ち続けてくれないだろう。まさに現在の株価がそのことを示している。

このHSBCの姿は、日本企業にとって対岸の火事などではない。ひとたび中国政府からアメリカの中国たたきに与しているとして「信頼できない企業」に指定されれば、その企業の中国でのビジネスは即死する。

また、日本人ビジネスマンも国家安全維持法によれば、中国居住者でない外国人も逮捕される可能性があるため、中国政府のご機嫌を損ねるようなことを言ったり行ったりした人は、うかつに香港や中国本土に足を踏み入れられなくなる。

fujiwara/写真AC

今や米中対立は、かつての日米貿易摩擦のような経済的な問題ではなく、言論の自由や人権を抑圧する中国共産党一党独裁を支持するか、言論の自由や人権を尊重する自由主義を支持するかという問題になって来ているのだ。

ここのところを間違わないようにする必要があるが、日本の政官界、経済界、マスコミ等では、まだ米中対立の本質がわかっていない人が多数いるのが気がかりだ。

これに関して、9月18日付けのウォールストリート・ジャーナルが、JR東海の葛西名誉会長と経団連の中西会長へのインタビューに基づく興味深い記事を掲載している。その中で葛西氏は日米の同盟関係が何よりも優先されるとし、中国にはそれをはっきり示すべきだとの考えを述べた一方、中西氏は日本政府がこれまで中国との関係構築に力をつくしたことを踏まえ、できる限り仲良くすべきだと言ったと報じられている。

言論の自由が封じられたり、基本的人権が政府によって踏みにじられたりすることは、我々日本人にとってありえない話だ。どちらに与すべきか、明々白々なのではなかろうか。HSBCの現在おかれている状況は、明日の日本企業の状況を映し出す鏡だ。