ロシア人ジャーナリスト オフチンニコフの素顔:『一枝の桜』50周年に寄せて(下)

ミハイル・スコヴォロンスキフ、タチアーナ・フレボーヴィチ 共著

「生活の文法」

フセヴォロド・オフチンニコフ氏(Андрей Орлов/Wikipedia:編集部)

林とイリイチョフとの宿命の出会いから3年後、オフチンニコフ氏は『プラウダ』の特派員として北京へ赴任した。サンフランシスコ講和条約に調印しなかったソ連と中華人民共和国が「ロシア人と中国人、永遠の兄弟」という標語の下で蜜月を迎えた当時、『プラウダ』は中国の迅速な工業化と中国共産党の動向に焦点を当てた。

そんな中、オフチンニコフ氏は1956の党大会を取材することとなった。3週間にわたって23時間しか睡眠が取れず包括的な日報を欠かさなかった若手記者は毛沢東の目を引いた

同氏によれば、ある日、毛主席は記者の事務室に足を運び、「大会の報道、ご苦労さん」と慰労して握手を求めてきたという。その後、高級な社宅を与えられるなど、中国での生活が一層快適なものとなり、ジャワハルラール・ネルやホー・チ・ミンが参席する中国政府主催の晩餐会に招待されることも頻繁だった。

しかし、フルシチョフによるスターリン批判で中ソ関係が悪化すると、オフチンニコフ氏も帰国を余儀なくされた。1984年にふたたび中国を訪れる機会を得た同氏は、その新しい訪中体験を「異星への着陸」と表現した。

1960年に中国を離れたオフチンニコフ氏の「漢学的素養」がその次の新天地を決め付けた。1962年から1968年にかけて新興経済大国日本に滞在し、その回想録として『一枝の桜』を著した。

安保騒動の余波が続くこの時期、オフチンニコフ氏は締め切りに迫られて『プラウダ』編集部に電話をかけるために米軍基地に潜入したり、日本共産党の要人から不審な小包を無理やり手渡されたりするなど、スパイ小説にしか見られない事件に巻き込まれることもあった。

はいうものの、同氏の鋭い眼差しは常に日本国民の生活に注がれていた。7年にわたる日本生活の結晶となった『一枝の桜』は、人類学的な観察や人道的な情緒に富む一方、冷戦を象徴する政治色が皆無に近いとも言える。

他国民のライフスタイルと価値観、本人の言い方を借りれば「生活の文法」を何よりも尊重したオフチンニコフ氏のアプローチは、その著書が永く読み継がれる所以となった。『一枝の桜』は、ロシアではともかく、日本では3度も翻訳され重版もされている。在東京特派員としての任期が満了してイギリスに移転したオフチンニコフ氏が、イギリス人の「生活の文法」を描いたベストセラーを執筆したのものアプローチのお蔭だった

国際記者、仙界に遊ぶ

1978年、ロンドンから帰国したオフチンニコフ氏のキャリアは更なる飛躍を見せた。当時、『プラウダ』で政治報道を担当していたオフチンニコフ氏のポジションは、いわば「重任」であり、副大臣や共産党の要人に匹敵するようなものだった。

しかし、1979年に同氏が就任した『国際パノラマ』での仕事は、政治的な影響力というより、全国的な人気をもたらした。『国際パノラマ』は、ソ連国営テレビが毎週放映したテレビ番組で、国際ジャーナリスト「メジュドゥナロードニキ」が中心となって全世界の最新の動向をソ連国民に届ける場であった。

『国際パノラマ』のホストとして登場してから、見ず知らずの人にも指差されるようになり、自分の任務をある種の「社会奉仕」とさえ感じ始めたオフチンニコフ氏は、『ヴレーミャ』という、視聴率の極めて高いニュース番組でも解説員として辣腕を振るった。2分にわたって最新の国際情勢を3億人近いソ連の人口に解き明かすコメントは、テレビ・ラジオ国家委員会のトップ・ラーピン委員長の認可を必要としていたが、オフチンニコフ氏によると、ラーピン委員長「お前なら俺よりもよく分かっているはず」と言い棄ててすぐ雑談に入るほど本人のことを信頼していたという。

同氏が重視する「プロ意識」は、政界の最高峰への扉を開いてくれた。毛沢東が国家主席の職を辞して文化大革命の下準備を開始したころには、すでにアンドロポフ氏(後にソ連の最高指導者となる)に抜擢され、顧問となるように勧められたが、「廷臣には不向き」として固辞した。

時代が下って「ペレストロイカ」を唱導したゴルバチョフ大統領に随行してインドを訪れるなど、ソ連のトップいわゆる「ノーメンクラトゥーラ」との接触が頻繁であった。「アンドロポフの誘いには応じるべきだった。そしたら、きっと今頃、贅沢なマンションに住んでいただろう」と夫人に叱られこともあるそうだが、本人は『プラウダ』本社に対地するそれなりの自宅になんら不満を感じていないそうだ。

不遇の教訓

ソ連の崩壊は、エリート層の信任を得ていたオフチンニコフ氏に少なからざる辛酸を嘗めさせた。『プラウダ』と『国際パノラマ』の職を解任され、すべての貯金を市場化の渦中で失った同氏は4年間、新華社通信ロシア語ニュースサービスの編集を務めた。

1996年、ロシア政府が発行する『ロシア新聞』の記者となり、今なお93歳という高齢にもかかわらずコラムを書き続けている。オフチンニコフ氏が2017年に受章した旭日章は、その日ソ・日ロ関係の前進と両国民の相互理解への貢献の証しとなった。

このように栄光と不遇を味わったオフチンニコフ氏は後生に向かって誡めの言葉を述べる。「記者たちは、社会の文化的欲求のレベルを向上させることに自分の使命を見出すべきだ読者を啓発すること、読者に知恵を与えること、読者をより親切な人間にすることこれらが私の目的でり、自己評価の基準でもあった」と。そしてかけがえのない「プロ意識」を最大限に活かして書かれた『一枝の桜』も、その他の著書も、これらの目的を達成するためのものだったと言えよう。

ミハイル・スコヴォロンスキフ 日本研究者、コロラド大学ボルダー校大学院非常勤講師
1991年生まれ。米国際問題評議会(CFR)等に勤め、2015年、三井物産モスクワ有限会社に入社。その後、国立研究大学高等経済学校(在モスクワ)客員講師等を経て、現在、コロラド大学ボルダー校大学院非常勤講師、同学博士課程在学中。ロシア国際問題評議会(RIAC)エキスパート。

タチアーナ・フレボーヴィチ 三井物産モスクワ有限会社エネルギー課シニア・コーディネーター
1991年生まれ。モスクワ市立教育大学卒業後、2014年、三井物産モスクワ有限会社に入社。2012年、石川県国際交流協会の日本語日本文化講座終了。2013年、筑波大学の日本語・日本文化コミュニケーター養成プログラム終了。2013〜2016年、被爆者証言の世界化ネットワーク(NET-GTAS)メンバー。