私がゼネコンの不動産本部に在籍時、上司の部長と喫茶店で駄話をしていた際、日本の街並みについて「道が曲がりくねり、行き止まりがあり、細い道や太い道が混在している中に日本独特の美しい街並みが表現されている」とつぶやいたことに私は衝撃すら感じたことがあります。
それまで考えたことすらなかったのです。定規で書くような格子状の道を作れば動きやすいのにと思ったのは欧州の古い街並みに対してアメリカの人工的な街づくりに機能性を感じていたからかもしれません。
街の表情とは画一的なつくりからは生まれにくい、こういう勉強をさせて頂き、後々あちらこちらで役に立ちました。例えば私が手掛けたバンクーバーの不動産開発では開発敷地内に作った公共道路はまっすぐではなく折れ曲がっています。この折れ曲がりの角の植栽や景色が完成から15年経ち、余計に美しさを増した気がします。道路の向こうには噴水と桜の木があり、満開の桜と噴水が織りなす美はカナダではなかなか見られない人工美だと思います。
隈研吾氏の「『東京は破綻する瀬戸際にあった』新型コロナが与えた都市計画への“警告”」という記事をアエラが掲載しています。
「日本全体が人口減少、高齢化、空き家問題に苦しむ一方で、一極集中が進み、超高層タワーが林立しました。東京はあきらかにバランスがおかしくて、これ以上いったら破綻する瀬戸際にあった。コロナ禍は都市の惰性に対する警告だったと思います」。私も同様のことはずっと言い続けてきたと思います。日本の街は美しかったのにその美を近代的なコンクリートの塊に置き換えようとしました。
「満員電車というハコ、オフィスというハコ、郊外の家というハコに人が押し込まれ、同じ時間に移動をし、競争を強いられる。僕はそれを批判的に『オオバコモデル』と呼びますが、今やオオバコモデルは効率的でも何でもなく、むしろ非効率なストレスの根源になっています」。その通りかと思います。私が上記のバンクーバーでの開発に関し、新聞などのインタビューで申し上げたのは「私は集合住宅というコンクリートの箱を売っているのではなく、コミュニティを作り、それに賛同した人たちに住んでもらいたいと思っています。コミュニティを作る、それが私のデベロッパーとしての仕事です」と。
隈研吾さんも自らがシェアハウスを経営されているそうですが、私も経営するシェアハウスに何を求めるかと言えば共同生活がより楽しくなるインフラ作りのお手伝いだと思っています。だからこそ、皆さんが心地よくお住まいになっているかミートアップやメールなどでのやり取りを通じて小さなコミュニティに目配せをしています。
隈さんのインタビューの最後の部分です。「大きな建築は不要で、路地や横丁のある木造低層の街並みを温存して、そこに人が自由に生きるための最先端のテクノロジーを埋め込めばいい。新しくスマートシティーを造成する必要なんて、ないんです」。素晴らしいです。
街並みをどう作るか、都市計画はどうなのか、今は戦後の住宅不足の時代ではなく、余っている時代です。一方で海外の機関投資家が指摘したように日本は世界第三の経済大国とは思えないほど住宅は小さく、クオリティが十分に高いとは思えないのです。とすれば都市計画として求められるのは21世紀の日本のビジョンであり、50年後の日本を見据えたものにしなくてはいけません。一時の流行で街づくりをするものではありません。
街づくりとは芸術なんです。そのセンスを隈さんのような方がリーダーシップをとって変えていってくれればうれしい限りです。金儲けや便利さばっかり追求する不動産開発ではなく、人間味と季節の風合い、そして長く住めば住むほど深みの出る愛着こそ、いま必要とされる都市計画なのです。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年11月4日の記事より転載させていただきました。