不思議な県境には廃藩置県の歴史的な経緯あり

八幡 和郎

日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (12月9日発売予定、光文社知恵の森文庫)を書いたのを機に、「明治の47都道府県:人口順位では新潟1位、兵庫2位」 『47都道府県所在地が決まった正確な歴史 【都市伝説】に惑わされない知識の重要性』というのを、アゴラと別のネットメディアに載せたら、いろんな意見や指摘があったので、少しお答えしておこうと思う。

ただし、名称については、別の回にしたい。

 県の境界線や県庁所在地の決定についての経緯にかかわる誤解の多くは、都道府県制度が成立した時間的経緯についての誤解によるところが多い。これも本当に正確に書こうとするとややこしいことこの上ないのだが、大雑把には以下のようなことだ。

  1. 慶応3年の12月に王政復古が行われて、新政府の立場からすれば徳川幕府は消滅した。ただし、実際には新政府の命令に従ったところも徳川慶喜になお従ったところもあるが、新政府が支配したところでは、幕府領や旗本領などには順次、新しい行政組織が設けられた。府、県、裁判所などいろいろだった。
  2. 明治2年に版籍奉還が行われ、このことで制度が整理され、大名の領地は藩、新政府の領地は40ほどの県(第一次府県と呼んでおこう)になった。藩が誕生したのはこのときだ。
  3. 明治4年の6月に廃藩置県が行われ、全国は3府302県になった。つまり、それまで府藩県の三種類だったのが二種類に整理されたのである。(第二次府県と呼んでおく)
  4. しかし、それでは、中央集権にするのは不向きだったので11月に第一次府県統合を行って3府72県にした。(第三次府県と呼んでおく)
  5. さらに、もう少し併合したいというので、順次、入れ替えがあったが、明治9年の第二次府県統合で整理され3府36県となった。(第四次府県と呼んでおこう)
  6. しかし、全国各地であそこと一緒は嫌だとかいう苦情が出て、いくつかの分割が行われ、最終的に明治22年に香川県が独立して、47道府県で落ち着いた(第五次府県と呼んでおく)。

しばしば誤解があるのは、このプロセスを無視した議論だからだ。県庁所在のかなりが大きな藩の城下町でないのを不思議がる人が多いが、その多くは、上記の第一次府県の段階で県庁が置かれ、県内各地の幕府領や旗本領を一括管理していたケースだ。たとえば、滋賀県の場合、大津県の管轄範囲は彦根藩に劣らぬものだった(彦根藩は文久年間に幕府によって35万石から20万石に減封されていたこともある)。

彦根城(SeanPavonePhoto/iStock)

長野の場合は、伊奈県で信濃の幕府領を管理していたが、広すぎるので、中野県が北部管轄のために設置されたが、一揆が起きたので長野に移った。

また、二つの県を合併するときは、中間の場所が選ばれた千葉や宮崎のケースもあるが、たいていは、二つの県庁所在地のうちどちらかが選ばれた。だから、最初から一緒だったらもう少し県の真ん中にしたのにというケースも多い。たとえば、長野県は筑摩県(松本)と長野県(長野)が合併したのだが、最初からひとつだったら上田だった可能性も大きい。

鳥取県は一時、島根県に吸収され、安倍前首相のご先祖の佐藤信寛が県令だった。このときに県庁を米子にしておけばよかったのだが、松江に置いたので、鳥取県分割運動が起きて分割され、小さい二つの県になった。

三県合併は、福島、山形だが、両方とも中間の県を選んだので、石高からすれば不自然になった。

昔の藩の境界への配慮は、現在の47都道府県にあっては、まったく残っていない。たとえば、山口県はどうして長門と周防二国の毛利領そのままかという人がいるが、山口県の当時の人口は、全国18位だから特段の配慮でない。薩摩藩は日向領をほかの藩領と一緒に独立させられたし、佐賀藩の領地のうちかなりは長崎県に残された。

ただし、上記の3.である第二次府県の段階では例外的に藩への配慮がある。それは、広島藩がそのまま広島県となり、備後のうち福山藩領だけが備中とともに県を為したのである。しかし、現状では安芸と備後で広島県というきれいな形になっている。それから、越後の東蒲原郡は会津領だったこともあって福島県に入れられていたが、のちに分離されて新潟県となった。会津藩内でつながりは深かったが、地形などから考えて当然だろう。また、淡路は洲本の領主だった家老の稲田氏と徳島藩が対立して騒動が起きた後遺症で兵庫県となった。

それから、交通の便では、鉄道はまだ普及していなかったので、ほとんど考慮されていない。だから、たとえば、但馬など鉄道があれば、鳥取県で良かったと思う。福島県も鉄道が敷設後は、明らかに郡山に優位があるが、県庁が決まった明治初期にいは小規模な宿場町に過ぎなかった。