開戦の日に振り返る、黒船からワシントン会議に至る米国の対日政策(アーカイブ記事)

日本軍が米ハワイ・真珠湾基地を攻撃してから、8日で80年となります。太平洋戦争開戦までのアメリカの対日政策を振り返ります。2020年12月10日掲載記事の再掲です。

Official U.S. Navy photograph 80-G-21218 from the U.S. Naval History and Heritage Command/Wikipedia

今年の12月8日(日本時間)は、真珠湾から約80年、ほぼ人の寿命に当たる年月が過ぎた。筆者は先の太平洋戦争は日本が米国に誘い込まれた戦争と考える者だが、そのことは昨年3月の愚稿をお読み願うとして、本稿では約170年前に始まっていた米国の厳しい対日政策を駆け足で振り返ってみたい。

米国の西漸

大陸での「西漸運動」を1846年の米墨戦争でのカリフォルニア獲得で一段落させた米国は、次の目標を太平洋に向けた。同じ年、ビットル提督麾下の東インド艦隊が浦賀に現れた。ペリー来航の7年前のことだ。1854年にはペリーの砲艦外交により、日本は「日米和親条約」を結んで開国する。

外国と結んだこの最初の条約を契機として、日本は弱肉強食の「西欧国際法秩序」という波高い大海に漕ぎ出すことになった。90年後の1945年9月2日、日本が降伏文書に署名した戦艦ミズーリには黒船の旗艦サスケハナに翻っていたその星条旗が掲げられていた。

ペリーの来航目的は二つ。一つはマッコウ鯨の脳油(良質な潤滑油)を採取する捕鯨船の貯炭所、他はアヘン戦争で先行する英国を中国で凌駕するための寄港地、つまりは太平洋での補給基地の確保だ。ペリーは台湾にも寄り、基隆の良港ぶりと石炭に目をつけ、本国にこれを占領すべきとも進言した。

日本を開国させた米国は1858年7月、不平等条約の嚆矢となる「日米修好通商条約」を結ぶ。これが不平等条約たる所以は、日本が米国に領事裁判権を認め、最恵国待遇を与える一方、関税自主権を持たないことだ。日本は引き続き、蘭、露、英、仏とほぼ同内容の条約を結んでゆく。

明治維新とは、アヘン戦争で西欧列強に蚕食される清国の状況を目の当りにし、砲艦外交による不平等条約を通じて直にその脅威に晒された日本が、富国強兵によって国力をつけ、西欧列強に伍すことによってのみ不平等条約を解消できる、と考えた結果のひとつの答えではなかろうか。

1861年から数年間、南北戦争で停滞した米国の西漸は67年のアラスカ買収で再開、98年のハワイ併合と米西戦争でのフィリピン領有と続く。英国のビルマ領有(86年)とボーア戦争(99年)、仏国のベトナム保護化(87年)、独国の南洋諸島領有(99年)など、帝国主義全盛の時代だった。

ハワイとフィリピンの領有を果たしたマッキンレーから大統領を継いだセオドア・ルーズベルトは、ハワイ併合時に直面した米国の(意図した思い込みによる?)日本への敵意から、日本を仮想敵とする「オレンジ計画」の作成に着手、海軍次官当時の97年に完成させた(1923年まで数次改訂)。

オレンジ計画に影響を与えたとされる海軍戦略家マハンの「シーパワーとアメリカの利益 今と将来」(1897年)には、英米による海上路の確保、黄色人種移民の受け入れ反対、ハワイ併合と海外貯炭所の確保、パナマ運河建設などの事項が盛られ、その多くに日本が関係する。

現代のパナマ運河(Faustino Sanchez/iStock)

これらの中で筆者はとりわけパナマ運河建設に注目する。東海岸にある米大西洋艦隊がマゼラン海峡を回って太平洋に出るより、パナマ運河を通るなら凡そ20日間(約13千km)短縮される。大西洋と太平洋を短期間に結ぶことは米国にとって大きなメリットだ。

そこで米国は、スエズ運河を作った仏人レセップスが1879年に着手し、後に資金難などで頓挫したパナマ運河を、革命を起こさせてコロンビアからパナマを独立させる(パナマ革命)という奸計によって手中に収め、第一次世界大戦の勃発した1914年に初運航するに至る。

日本の台頭

筆者は、日清戦争に勝って列強の端くれとなった日本が西欧列強に伍す契機を、1900年の北清事変(義和団事件)と考える。8ヵ国連合軍が到着するまでの55日間、紫禁城近くの公使館地域に籠城した各国の護衛兵と義勇兵500弱は、民間人4千と共に、清朝軍と義和団約4万に包囲された。

義和団の兵士(Wikipedia:編集部)

籠城兵を指揮したのは柴五郎中佐。日本兵はみな明朗、戦闘では軍律厳しく勇敢だったため戦死者も多く出した。その様子は「タイムズ」記者モリソンが英国に逐次打電し、世界中に配信された。北京議定書で北京周辺の護衛には列強の軍が当たることとなり、日本も北京と天津に駐屯軍 を置いた。

日本は5年前、日清戦争で得た遼東半島を仏独露による三国干渉で放棄させられ、その露が旅順・大連を、独が山東膠州湾を、仏が広州湾を租借するに及び、臥薪嘗胆を誓う。その時これに加担しなかった英国は、北清事変での日本兵の戦いぶりを大いに評価、これが1902年の日英同盟に繋がった。

1904年2月に戦端を開いた日露戦争で英国は日英同盟の誼(よしみ)で、戦費の調達からバルチック艦隊への邪魔まで陰に陽に日本を支援、これが日本勝利の一因ともなった。日本はお返しとばかり第一次大戦に参戦、山東半島は日英連合軍で、南洋は単独でドイツを駆逐し、三国干渉の恨みを晴らした。

ワシントン条約

日本の日露戦争勝利や第一次大戦での活躍は、ルーズベルトとウイルソン両大統領に日本への脅威を抱かせるに十分だった。特に1919年のパリ講和会議に英米仏伊と並ぶ五大国として参加した日本が、ハワイ問題当時から懐いていた人種差別撤廃を講和会議の国際連盟委員会で提案したことは、英米豪の反発を招いた。

国際連盟委員会/Wikipedia

この時のベルサイユ条約を以て欧州の秩序は一新されたが、太平洋と極東のそれは未解決のまま残った。特に海軍では、米国の「ダニエルズプラン」と日本の「八八艦隊計画」で知られる大増強計画が行われ、英仏伊もそれに釣られて、各国が軍事費の増大に悩まされた。

そこで米大統領ハーディングはワシントンに英仏伊日蘭中、ベルギー、ポルトガルの8ヵ国を招請、9ヵ国は1921年11月から翌年2月にかけて海軍軍縮と太平洋・極東問題に関して討議し、7つの条約締結と12件の決議を行った。いわゆるワシントン条約はこれらの総称だ。

ワシントン条約から真珠湾までは約20年の間がある。が、筆者には、これら諸条約等によるワシントン体制の成立が米国による日本抑え込み策の一つの決定打であり、米国がまんまとそれに成功したエポックに思える。この時点で25年後の日本の対米敗戦はほぼ決したのではなかろうか。

蛇足になるが、「海軍軍縮制限に関する条約(五ヵ国)」では日本が保有できる主力艦と空母のトン数が米英の7割に抑えられた。また「太平洋方面における島嶼たる属地及び島嶼たる領地に関する四ヵ国条約」では日英同盟が廃棄された。日英の力を同時に削ぐ米国の戦略だった。

最後に付け加えれば、この後者では「樺太、千島列島、台湾及び澎湖諸島、琉球諸島、奄美大島、小笠原諸島」が「日本の島嶼たる属地及び領地」と定められた。