明治22年:市町村発足と県庁所在地の人口順位

なぜその町が県都となったのか?地元に住んでいる人でも知らない「県庁所在地」の成り立ちを、歴史的な経緯、地形、観光、都市開発の歩みなどから明らかにしていく『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』 (光文社知恵の森文庫)が先週に発売になって、好評をいただいている。

北海道庁旧本庁舎(CHUNYIP WONG/iStock)

居住している都道府県はもちろん、出張や観光で他県を訪れた際にも、町を歩いて歴史の痕跡を発見できるし、ビジネスの話のタネになるだろう。

ところで、明治4年(1871年)の廃藩置県で創設された都道府県制度の歩みは広くされているのだが、明治22年(1889年)に始まった市町村制度の歴史はそれほどでない。そうしたことについて、それぞれの県庁所在地ごとに詳細にこれまでの推移について書いているのだが、今回は、総論的に市町村制度の歴史と明治22年の人口順位、そして、市制の時期についての一般論を紹介したい。

府県に比べて基礎自治体(市町村)制度の確立は少しもたついた。江戸時代の町や村の上に小区。そのうえに大区を置こうとしたが、うまくいかず、明治11年(1878年)に郡区町村編制法が制定され、郡には官選の郡長や郡役所を置いた。

東京・京都・大阪の三都では、東京は麹町区・神田区など15区、京都なら上京区と下京区、大阪は東西南北の4区が置かれた。町村には戸長がいて自宅を役場にした。

明治17年(1884年)に戸長を500戸を目途として置き、連合戸長役場と呼ばれるようになり、自宅に置くことは禁止された。町村制は、明治21年(1888年)4月25日に公布され、翌年の4月1日以降に始まった。このときに、「明治の大合併」が行われ、数個のムラが集まって人口3000人をめどにし町村ができた。連合戸長役場の管轄範囲が基本になった。だいたい、小学校を設置する母体として適切な規模だった。

市制も同時に公布され、府県によって少し差があるが、翌年の2月までには出そろった。ただし、沖縄、対馬、隠岐、奄美大島郡では大正10年(1921年)、伊豆諸島と小笠原では昭和15年(1940年)、北海道や樺太では昭和18年(1943年)になって適用された。それまでは、市でなく区だった。

最初の段階で市になったのは39市であった。

律令制以来の郡は、長らく行政単位ではなかったが、河川流域などを考慮した自然の摂理に合ったものなので、意識の上では帰属意識も強く根付いたものだった。木枯らし紋次郎も「上州は新田郡・・」と名乗ったのであって、どこの藩の人間かなど意識になかった。

郡は都市部にも設定され、皇居は豊島郡、京都御所は愛宕郡、大阪城は東成郡なのだが、市町村制の下では市は郡から外れた。一方、農村では郡役所、郡長、郡会も設けられたが、中央統制を全国津々浦々に及ぼすためのものだったので、政党勢力には好まれず、大正12年(1923年)に自治体としての郡が廃止され,大正15年(1926年)には行政官庁としての郡も廃止された。

本書では、都道府県庁所在地の人口の推移を掲げているが、1889年は市町村制度発足の年で約12000市町村、1940年は戦前の総決算で市域は市街地はだいたい合併したころで10000市町村、1990年は昭和の大合併が終わった段階で3300市町村、そして、2020年は平成の大合併のあとで1700くらいになった段階のものだ。

そのうち、この記事では、1889年の段階での人口順位を掲げておくが、県庁所在地で市にならなかったものも多く、最後の浦和町が市になったのは、1934年であった。基本的には人口3万人が基準だが、さまざまな政治的配慮などで、ボーダーラインの場合には、かならずしも、厳密に人口3万人で線が引かれていたわけではない。

また、高松市が一年遅れた1890年になっているのは、香川県が愛媛県から1888年に分離して混乱していたためだ。

この時に市制を敷かなかったところもだいたいは明治のうちに市となったが、千葉、山口、宮崎、浦和、札幌、那覇は遅れた。ただし、札幌、那覇は北海道や沖縄で市町村制度の実施が遅れたためだ。

人口が多い方では、いわゆる6大都市はそのままだが、京都が3位だった。また、それに続くのが、金沢、仙台、広島、徳島といった大きな城下町が10位までに入っているのに今昔の感がある。