※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、を元に、京極初子の回想記の形を取っています。今回は『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)も採り入れています。前回記事「織田と豊臣の真実⑳ 北条氏直未亡人の再婚」はこちら
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太閤秀吉さまが伏見城で亡くなられたのは、慶長3年(1598年)8月18日のことでした。3月15日に醍醐寺で花見をしたときはお元気だったのですが、5月くらいから病で寝ておられることが多くなっていました。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことは 夢のまた夢 」というのが辞世の句ですが、辞世の句というのは、本当にその期に及んで詠むものでなく、あらかじめ用意しておくものです。
この句も北政所様側近の孝蔵主が預かっていたのだそうです。死の床での秀吉さまは、秀頼さまたちのことが心配で心配で、こんな澄み切った気持ちにはなれなかったことでしょう。
「なには」というのを「浪速」だと解釈する人もいますが、天下人としての秀吉さまの本拠はむしろ京都ですから 、「浪速」とか「難波」だというのは、大坂の人の願望ではないでしょうか。
ご遺体はその日のうちに東山阿弥陀峰に移され埋葬されましたが、これは、神になることを望んだ秀吉さまのために葬儀が神式で行われたためです。
阿弥陀ヶ峰は今の京都女子大の背後にある山で、京都駅からもよく見えます。戦後しばらくは石段がよく見えていたのですが、樹木が覆い茂って今では平凡な山で、登ることはそれほどつらくありませんから、試してみられるといいと思います。火葬せずに甕の中に座った格好で埋葬されています。
しかし、朝鮮からの撤兵を円滑に進めるために、その死は注意深く秘密にされました。
このために、阿弥陀ヶ峰の麓で豊国神社の工事が始まっても、大仏殿の摂社ではないかと京都の人たちは思っていたということです(現在の豊国神社は方広寺大仏殿のあとに明治になって再建されたものです)。
そして、前田利家さまは北政所さま、茶々、秀頼さまに大坂城に移るようにいいます。茶々は住み慣れた伏見城を去るのを嫌がったようですが、利家さまは遺言ということで譲らず、翌年の正月早々に実行されます。堅固な大坂城にいる方が安全だというのが、秀吉さまのお考えだったのでございます。
家康さまが最初にされたことは、秀忠さまに江戸へ戻れと命じることでした。危険を避けるためと、いざというときに、関東から軍勢を率いて上洛できるようにするためです。本能寺の変で信長様と信忠様が一緒に京都にいて織田の天下が終わってしまったのを見ておられる家康様ならではの判断です。
そこで、お江もしばらくして江戸を目指しました。家康さまは、「しばらくのことだ、富士の山を眺めながら暮らすのもいいものだ」などと明るく言われたのかもしれませんが、いまにして思えば、わたくしたち姉妹があまり今後のことなど真剣に話し合わないように、ものごとを軽く扱われたように思います。
こうして、このときは、そんなことになるとは思いませんでしたが、茶々とお江が会ったことはそれ以降、一度もありません。姉妹の意図しない生涯の別れ・・・でございました。
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