龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。

高知の街並み(Sanga Park/iStock)

私が生まれたのは、高知の中心部から、伊予の松山や幡多地方に向かう街道に沿った上町の一角で、本町筋一丁目といった。現在では高知市上町一丁目七番三四号と呼んでいる。生家の跡には石碑があるだけだが、「龍馬の生まれたまち記念館」などというのも裏通りにオープンした。

ここでちょっと、高知の町の由来と地理を説明しておこう。

高知の町は、浦戸湾の奥深く位置し、鏡川と江ノ口川に挟まれ交通の要衝である。五台山は高知市内を見渡せる絶景で古くから人気だが、麓には、四国八十八箇所第31番札所の竹林寺などがある。

その麓で生まれたのがライオン宰相といわれた浜口雄幸で郷士の出身だ。桂浜は太平洋に面して雄大な景観が広がり、私の銅像や龍馬ミュージアムがあることで知られる。内緒話だが、私は桂浜という所に行った確かな記憶はないのだ。ただし、私は海が好きだから、広々とした太平洋を見渡せるこの場所は居心地が悪いわけでない。

桂浜の背後には長宗我部氏の居城だった浦戸城の跡がある。戦国大名だった長宗我部氏については、また、詳しく話す。

市中心部から見て北の方にある、土佐神社はこの国の一宮で賀茂氏にゆかりの味鋤高彦根神と一言主神が祀られている。

大高山という低い丘の上に高知城は築かれている。本丸と二の丸が山上に独立してあり廊下橋で結ばれている。天守閣は江戸中期の火災後に再建されたものだが、もとに近い形で復元したのでやや古風である。県庁は城山の麓にあるが、文化財保護の観点から文化庁がうるさいので、新築する場合にはこの場所では難しいと言われる。

高知城(winhorse/iStock)

城の周りは郭内と呼ばれ上級武士が住み、板垣退助や後藤象二郎の家はここにある。彼らは家老クラスとは云えないが、いわゆる上級武士だ。

そして、郭内の西側が上町、東側が下町である。下町には有名な「はりまや橋」がある。「ひろめ市場」は南国的な市場で現代の観光客にも人気だ。

山内家には2つの菩提寺がある。もともと山内家は、日蓮宗で、要法寺は長浜城主時代からの菩提寺であって掛川を経て高知にやって来た。しかし、藩祖である一豊公は曹洞宗に帰依したので、真如寺を創建して、ここに歴代藩主の菩提寺の霊廟も置いた。

高知の町は、明治22年の市町村制創設のときに最初から市制を敷いた。人口は2.2万人。大正から昭和のはじめにかけて江ノ口、旭、下知、潮江、小高坂、秦、初月といった中級以下の武士や郷士の住まいとして城下の一部を成していた範囲を合併して人口10万人を超えた。

さらに、昭和17年には五台山、浦戸、一宮、三里、高須、鴨田、布師田、朝倉、長浜、御畳瀬といった町村にまで市域が及んだ。このために、昭和の大合併は小規模なものに留まった。

平成の大合併では土佐郡土佐山村及び鏡村および、総合運動公園がある春野町を編入し、市の面積は80%も増え、人口は34万人に近づいている。高知の中心部は土佐郡だが、長岡郡、吾川郡にも及んでいる。

*本稿は、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)と「デジタル鳥瞰 47都道府県庁所在都市 西日本編」 (講談社)の内容をもとにしている。後者は、空撮写真を地図に取り込んで標高を強調し、立体感を強化したCGとその解説からなっている。

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