メルケルさん!「立つ鳥跡を濁さず」

引き際を綺麗に整理してから立ち去るということは決して容易ではないだろう。特に、長い間、トップだった者が引退する場合、そうだろう。欧州連合(EU)の顔として2005年11月から15年間余りドイツ政権を導いてきたアンゲラ・メルケル首相(66)の場合はどうだろうか。日本語には気の利いた諺(ことわざ)があるのを思い出した。「立つ鳥跡を濁さず」だ。当方が心配しているのは、メルケル首相が「立つ鳥跡を濁す」のではないかという点だ。説明する。

▲2019年9月、中国武漢市を視察中のメルケル独首相(独連邦首相府公式サイトから)

▲2019年9月、中国武漢市を視察中のメルケル独首相(独連邦首相府公式サイトから)

政治の恩師ヘルムート・コール(在任1982~98年)に見い出されてからドイツの政界トップに駆け上がり、恩師の任期最長期間16年間に次ぐ長期政権を担ってきたメルケル首相の業績は少なくない。先ず挙げられる点はドイツ政界の安定と国民経済の発展だろう。しかし、2015年秋、中東・北アフリカから100万人以上の難民が欧州に殺到して以来、メルケル首相は守勢に入った。ドイツ国内ではメルケル首相の難民歓迎政策は批判され、極右派新党「ドイツのための選択肢」(AfD)が台頭するチャンスを与えてしまった。健康問題も表面化し、外国貴賓を迎える式典でめまいを起こしたこともあった(「欧州の政界を変えた独首相の『発言』」2020年9月2日参考)。

そこでメルケル首相は2018年10月、先ず与党「キリスト教民主同盟」(CDU)党首の座から降り、首相職に専念し、今年9月の総選挙にはもはや出馬しないことを表明した。その引退の時まであと8カ月余りとなった。文字通り、立つ鳥は後始末をし、後継者に全権限を譲り、身辺を整理するべき時を迎えているわけだが、後継者に禍根を残すような決定や発言がここに来て見られるのだ。

政界引退の意向を表明した後、メルケル首相の政治的影響力は急速に減少していった。しかし、中国武漢発の新型コロナウイルスが欧州を襲撃し、多数の感染者、死者が出て、欧州全土は対策に振り回され苦境に陥った。それに呼応するかのように、メルケル首相の発言が増えていった。理論物理学を学んだメルケル首相は理数系の頭脳を発揮し、ドイツの世界的なウイルス学者ドロステン教授(シャリテ・ベルリン医科大学ウイルス研究所所長)と意気投合し、強硬なコロナ規制を実施。これまでのところドイツの感染者数、死者数はフランス、イタリア、スペインなどより低く抑えられている。そこで「さすが、メルケル首相だ」という称賛の声も飛び出してきたわけだ(「新型コロナがメルケル氏を蘇らせた」2020年4月27日参考)。

ここまでは良かったが、昨年末から今年にかけ、2点、大きな間違いを犯した。一つは昨年12月30日、中国との間で「EU中国投資包括協定」(CAI)を合意したことだ。もちろん、同協定はEUと中国間の協定だが、中国はドイツがEU議長国である昨年下半期での合意を願ってきた。同協定によると、「中国側は欧州企業の中国市場へのアクセスを改善し、政府補助金に関する情報の透明性を高め、欧州企業の知的財産の中国本土への強制移転といった差別的習慣を撤廃する」という。欧州諸国では中国の人権問題を指摘し、「中国は約束を守らない」と反対の声が出ている。同協定の発効には欧州議会の批准が必要となる。

メルケル首相はこれまで12回、中国を訪問している。世界主要国で10回を超える訪中をした政府首脳はメルケル首相以外にいない。中国は親中派のメルケル首相の任期中にEUとの投資協定を合意したかったのだ。メルケル首相は欧州内に反対の声があるのを知りながらも、協調路線を支持して合意を後押ししてきた。中国との投資協定合意は欧州に大きな禍根を残す結果となるだろう。

もう一つは、ロシアの反体制派活動家ナワリヌイ氏の拘束に抗議して、欧州議会はドイツとロシア間で進めているロシアの天然ガスをドイツまで海底パイプラインで繋ぐ「ノルド・ストリーム2」計画の即時中止を求める決議を賛成多数で採択したが、メルケル首相は「ナワリヌイ氏の問題と『ノルド・ストリーム2』計画とは別問題だ」として、続行する意向を明らかにしている(「国際社会はナワリヌイ氏に連帯を!」2021年1月25日参考)。

第1パイプラインは2011年11月8日に完成し、2本目のパイプライン建設「ノルド・ストリーム2」は2019年末には完工する予定だったが、米国側が、「ドイツはロシアのエネルギーへの依存を高める結果となる。欧州の安全問題にも深刻な影響が出てくる」と強く反対し、同計画に関与する欧米の民間企業に対して経済制裁を実施すると警告。そのため完成まで150kmあまりの距離を残し、同計画は現在、停止状況に陥っている。欧州議会は工事の中止を求める決議を採択し、ロシア側に圧力を強めてきたところだ。

理系の頭脳の持ち主、メルケル首相は中国の市場が巨大であり、輸出国ドイツにとって中国市場は重要だという計算があるだろう。また、あと100km余りとなった「ノルド・ストリーム2」のパイプライン建設計画を中止すれば莫大な工事費が水泡に帰する。脱石炭、脱原発のドイツにとってロシアからの天然ガスはドイツ産業に必要なエネルギーという冷静な判断が働いたはずだ。

その結果、メルケル首相は、中国の人権蹂躙などの問題を無視し、CAI合意を支援。ナワリヌイ氏の拘束は不法であり、根拠のない判断と分かっていながら、経済的、エネルギー政策的に不可欠な「ノルド・ストリーム2」計画を中止せず、続行を考えているわけだ。一方、相手側、中国とロシア両国はメルケル首相の任期中にまとめたいという焦るような思いがあるはずだ。

好意的に受け取れば、メルケル首相は後継者に難問を残さないで、任期中に処理しようとしたのかもしれない。しかし、CAI合意も「ノルド・ストリーム2」建設問題も欧州ばかりか、世界にも影響を及ぼすテーマだ。メルケル首相は新型コロナ対策に集中し、残された課題はやはり後継者に委ねるべきではなかったか。「立つ鳥跡を濁さず」という諺をメルケル首相に贈りたくなった次第だ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年1月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。