伝えること・届けることの難しさ ~菅総理、再生可能エネルギーなどから考える

最近、テレビの政治ニュースを見るたびに、国会での「総理、総理、総理~!逃げないでください~!」の絶叫映像が映し出される。

国会で施政方針演説する菅首相(NHKニュースより:編集部)

立憲民主党の辻元清美議員・蓮舫議員や共産党の小池議員といった「いつものショーマン」たちが、切れ味鋭く総理に答弁を求めるたびに、田村厚労大臣や西村経済財政担当大臣が横から挙手して出て来て答弁するという映像だ。そして、総理が出て来て答弁する際は、「私は逃げてなんかいません。精一杯頑張っています。」的な発言をする、というパターンがお茶の間に伝わる政治ニュースの定番になりつつある。

コロナ対応などについての本質的な議論とは正直ほぼ関係ないが、こうしたやり取りがテレビにとっては「格好の絵」となっている。弁舌爽やかで、「ピッ」とキーワードが伝わってくる野党の追及者たちと、のどが痛んで(総理本人談)朴訥とかたる総理との対比の構図。自宅療養者の死亡について「申し訳ない」と述べ、与党議員などの夜の会食についても「お詫び」をする総理に迫る野党議員という図は、典型的な勧善懲悪シリーズにも見え、正直、政権側の分が悪い。この後、「同情票」が集まる可能性もゼロではないが、支持率は低下の一途であり、一部の調査では危険水域の30%を切りつつある。このままでは選挙を戦えない、との声もチラホラ聞こえ出している。

ただ、虚心坦懐に政権発足後の約4か月で考えれば、携帯料金の値下げに道を開き、来年度からの不妊治療への公的医療保険適用という方針も打ち出し、デジタル庁の設立をはじめ行政のDX推進もこれまでになく取り組んでいる。「政治職人」とも言うべき、たたき上げの経歴・風貌・語調の菅総理やその周辺からすれば、「しっかり良い政策を作っているのに、どうしてこうも伝わらないのだろう」という気分ではないか。

単に文句だけ言っている割に、その「伝え方」が見事なために、政権の責任追及というメッセージが国民に届いている感のある弁舌爽やかな野党議員と、コツコツと土日も休まずに真面目に仕事する「職人」で、比較的いい「政策」を作っているのに、それがどうにも届かない菅総理。政権浮揚の突破口は、やっていることの「届け方・伝え方」にあるわけだが、この点がどうにも戦略的に弱いのが日本の伝統でもあり、政権のもどかしい想いはしばらく続きそうだ。

菅総理に限らず、日本人はどうも、「(良いものを)作る」というところに意識が過度に向きがちで、伝えること・届けることへの意識が弱い。国際社会に自説を訴える外交上のプロパガンダ作戦から、エンタメの世界でせっかくの良いコンテンツを伝えるところまで、どうも日本は、政府も民間企業も、専門的なPR会社が多数ひしめく欧米はおろか、中国や韓国と比べても分が悪い。

先日、塾頭をつとめる「ぬまた起業塾」(群馬県沼田市)の受講生向けに、オンラインで、googleや博報堂の信頼する方々に特別の講義をしてもらった。その際の話の受け売りだが、例えばシティ・プロモーションを例にとると、日本の各自治体は「ホームページを作る、SNSのプラットフォームやユーチューブ動画を作る、或いはキャンペーンのポスターを作る」というところに予算や労力の9割を向けてしまい、伝えること・届けることへの力の注ぎ方が非常に弱い、というのが彼らの分析だ。

起業者・事業者も一般には全く同じだそうで(私にとっても耳が痛い限りだが・・・)、いい製品・サービス・広報媒体の作り込みに意識が向きすぎてしまい、伝えることに時間やお金をかけなさすぎる、という話があった。確かに、良いホームページや良いチラシを作れば伝わる・届くと考えるのは甘い。動画の作りは多少甘くても良いので、それをどのように伝播させるか(例えばインフルエンサーや社内リソースの活用)、或いは、そのチラシや動画を、他所との地道なリレーション構築によってどのように「伝えるか」「届けるか」ということにもっと時間を割くべきだとのことである。

広報・PR業界では「サーロイン(3:6:1)」ということも言われているようで、要すればSNSページやチラシを作る時間・労力は3割で良いので、6割はリレーション構築に向け「届ける」ところに力を注ぐべきであるという話だ。役場の広報担当は、伝える現場にいるべきで(リアル&バーチャル)、極端な話、ほとんど役場にいなくて良い、という話もあった。(ちなみに、残りの1割は、その自らの動き方の「レビュー」に充て、反省しつつ、更に届けるところに注力すべき方策を考えるべし、とのことだった。)

自治体も企業も、伝える「道具」の作成で疲弊しているが、道具は使われなければ意味がない。せっかく、人件費や予算をかけて作られた「作品」が各地に数多あるが、ほぼ露出されていない、見られない動画とHPの「残骸」と化してしまっている感がある。広報の世界で良く言われるセリフのようだが、「届かないラブレター(企業で言えばHPやSNSページ?)は、書いてないのと同じ」との言葉が胸を突く。

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視点を変えてみれば、数多くの新エネルギーをベースとした発電事業者や政府のこれまでの取り組みにも「届けること」の弱さが出ている。日本では今一つ新エネルギーの普及が弱いが、事業者も政策マンも、「例えば、太陽光パネルを張り巡らせて発電すること(作ること)」「風車を置いて発電すること」ばかりを考えてはいなかっただろうか。結果、固定価格買取制度(FIT)に過度に依存しすぎてしまい、個別の利用者の開拓が弱い。買取価格が下がるにつれ、全体にジリ貧だ。本来は、政府も企業も、政策面での制度導入(発注)から、今までの「リードタイム」のうちに、個別家庭や需要家に電力を届ける(ちゃんと宣伝して売る)ことに、もっと尽力すべきだったのではないだろうか。(大手電力を万全に守ろう、という陰謀でなければ。)

もちろん、作りこむ、ということも大事ではある。いくら伝え方がうまくても、実際のモノやサービスが良くなければいずれ馬脚が現れる。ただ、菅総理や外交や新エネルギーの普及状況を見るに、「職人国家」の強みに加え、伝えること・届けることへの注力を社会として、国家として進めていかないと、日本の将来は益々厳しいことになりそうだという感じが、私の中で日増しに強くなっている。