「クオッカの笑顔」と「魚の楽しみ」

前回に続いてオーストラリアのロットネスト島に棲むクオッカ(クアッカワラビー)に登場を願う。「世界一幸せな動物」といわれている。直接出会ったことはないが、写真を見る限りではクオッカは笑っている。何が楽しく嬉しいのか、その表情は好奇心旺盛で恐れを知らない天真爛漫な子供のようだ。クオッカを見ていると、笑みがこぼれてくるから不思議だ。だから「世界一幸せな動物」と呼ばれるのだろう。

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「世界一幸せな動物」クオッカの笑顔(オーストラリア観光局サイト、James Vodicka氏撮影)

当方はクオッカの写真を見ながら考えた。クオッカは天敵のいない島に住んでいて守られているという。そこで伸び伸びと生きているので人間の赤ちゃんのように表情が可愛いのかもしれない。だが、誰もクオッカと直接話したことがないので「世界一幸せな動物」なのかどうかは分からない。

「クオッカの笑顔」を考えていると、中国には「魚の楽しみ」という言葉があるのを思いだした〈荘子外篇の「水篇」から)。さらさらと流れる小川に泳ぐ小魚を見て、「楽しそうに泳いでいるな」と考えていると、傍にいた論理学者は、「君は魚が楽しいのかどうかを知っているのかね」と尋ねた。魚に直接聞いていないから、楽しいのかそうではないのか知らないではないかという問いかけだ。ひょっとしたら、小川の水が冷たくて風邪をひきそうだから、一生懸命に泳いで体を温めているのかもしれない。大きな魚が近づいてきたので、パニック状況となっているのかもしれない(当方流の解釈)。

今回のコラムのテーマは「私たちは自分を含め、相手を理解していないのではないか」という呟きだ。フランスの哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」のような響きがあるが、私たちは身近な人すら正しく理解していないのではないか、という問いかけだ。

なぜ突然、「クオッカの笑顔」と「魚の楽しみ」が飛び出したのか、と問い詰められれば、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相の失言と、それに関連したバッシング騒動に少し関連する。ウィーンに住んでいるから森発言の衝撃は日本ほど伝わってこないこともあって、「日本のメディアは騒ぎすぎではないか」といった印象を受けるのだ。いつものことだが、米紙ニューヨークタイムズは早速、森発言を批判する記事を配信している。森発言は米紙にとってそれほど大騒ぎする内容があったのだろうか。

当方がそのように呟くと、「やっと本音を出したわね、あなたは女性蔑視者だ」といわれるかもしれない。しかし、当方は女性蔑視者ではない。ユダヤ人の世界にいい言葉がある。「神は24時間、あなたをケアできないので、その役割を母親に託した」という趣旨の言葉だ。女性は、そして母親は神の代身者というのだ。そのような言葉に感動する当方が女性蔑視者であり得るだろうか。

森発言「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」は女性を小馬鹿にした響きがあるが、森元首相が本当に女性を蔑視する考えから発言したのかどうかは分からない。人は本当にそのように考えていなくても自身の考えとは異なった内容を語ることが出来る存在だ。だから、「失言」といい、「暴言」と呼ぶのではないか。

森氏が本当に失言の内容のように女性蔑視の思想の持ち主だったら、失言は「失言」ではなく、森氏の思想を反映した「見解」と受け取るべきだろう。そして森氏の「見解」であるのならば、「言論・思想の自由」という人間の基本的権利として尊重しなければならなくなる。森氏を追及している人々はその人権を蹂躙していることにもなる。幸い、多分、森氏の発言は失言であり、彼の見解ではないだろう。

失言であるならば、森氏は「ごめんなさい」と謝罪すればいいわけだ。何度も謝罪を繰り返す必要はない。誰でも失言するし、時には暴言も吐く。その時、謝ればいいのではないか。

森氏の発言に激怒されている女性に聞きたい。森氏の失言で自身の心が完全に蹂躙されたと感じたのだろうか。言葉は魂を傷つけるから、血を流すほど傷ついた女性がいるかもしれない。しかし、森氏の発言内容が「失言」であって、森氏「見解」でないのならば、森氏が一度謝罪すれば許せる問題だ。失言は誰にでもある。第46代米大統領に就任したジョー・バイデン氏も失言、放言の政治家として有名だ。そのバイデン氏が今回、大統領の座を勝ち取ったわけだ。バイデン氏は失言の度、カメラの前で謝罪しただろう。そしてカムバックしたのだ。なぜならば、失言はバイデン氏の本来の見解ではなかったからではないか。

政治家の失言、暴言を第三者は分析し、憶測して糾弾する。政治の世界には政敵がいるし、失言を喜んで報道するメディアが待っているから、失言が飛び出す度に大騒動が起きるが、そろそろ止めようではないか。もちろん、政治家の発言には責任があるから、失言した場合、その責任を明確にしなければならない。本当に「失言」か、それとも「見解」をはっきりと区別すべきだろう。森氏が女性蔑視の思想の持ち主であり、確信犯とすれば、女性は今後、(思想の全く違った人物として)森氏を無視すればいいだけだ。メルケル独首相が極右派政党「ドイツのための選択肢」(AfD)に対して自身の世界観、政治信条とは異なった政党として常に一定の距離を置いて対応しているようにだ。

いずれにしても、私たちは他者を理解することが容易ではないのだ。それ故に、相手を批判する時は慎重にならざるを得ないわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。